
北海道は、蝦夷地と呼ばれていたのが「北海道」と名称変更になり、それを開基150年などといって祝っていたのが2018年だった。その前は青森(津軽)と海峡を挟んで対岸共通文化圏だった北海道南部を除けば未開の地だったわけだ。海岸沿いに、あちこちのアイヌ部族との交易所的な集落はあったようだが、大きな町といえば江刺・松前くらいのものだった。戊辰戦争の後、没落した反政府側諸藩の集団移民や日本海側諸地域からの食い詰め者の移住地(一旗あげるぞ、フロンティアみたいな感じ)、そして犯罪者の収容所、流刑地として活用された。
北米やオーリトラリアのイギリス植民地と似たようなものだ。対ロシアの防衛拠点として、政府主導の開拓が進められたとは言え、やはり「流れ者」が集まってできた混住地というのが正解だと思う。当時は日本海側の海運が主力であり、北は青森から南は鳥取、島根あたりまでが主たる移住者供給地帯だった。特に明治政府に抵抗した地域からの移住が多かったようだ。奥羽列藩同盟所属諸藩はその典型だろう。
そのため、各地の方言が微妙にミックスされた北海道弁が形成された。だから北海道弁というより流れ者の共通語だったのだろう。それが混住時期が長く続くと、北海道弁だと思っていたら、同じ言葉が岩手で使われていてびっくりした、などという北海道民の変な思い込み話もたまに聞く。元々は岩手や宮城など東北地域の言葉が、北海道に流入して広まったのだから、北海道民の言語モンロー主義には笑ってしまうところがある。

自分のルーツを調べてみたら、父系は4代前に富山から北海道に逃げてきたらしい。水飲み百姓(小作農)の三男だか四男だかで、典型的な「貧乏人の一旗揚げるぞ的な動機」での移住だった。ところが、やはり夢は簡単に敗れ、日高地方で借金を踏み倒したのか?、夜逃げ同然に知り合いのつてを辿って芦別に入植。その後は真面目に開拓に励み、小作人を雇うほどの地主様になったが、戦後の農地改革でまさかの農地没収。それでも祖父の代ではそこそこの規模の自営農家となり、その次男であった父親が役人になった、というこれまた北海道では一山いくら的な典型的家系、ルーツ話だ。キンタ・クンテのような劇的な話ではない。
おそらくじい様の代あたりでルーツの富山とは徐々に切り離され、内地との距離感を持った北海道人化したというところだろう。だいたい苗字からして、明治代に強制的に与えられた農民向け姓名だし、浄土真宗の檀家だし、富山の底辺階級からの脱出組だ。
さすがに最近は北海道民でも、「内地」という言葉を使う人も減ったが、内地とは外地に対する言葉だ。内地は日本本国、つまり本州と四国、九州で構成される。外地は明治期に拡大した領土で、北海道と日露戦戦勝で得られた樺太、日清戦で獲得した台湾、朝鮮などの諸地域をさす。琉球も明治政府成立後のどさくさに紛れて編入したから外地だったのだろう。
つまり外地とは植民地の言い換えと言って良いと思う。植民地人の屈折と憧れ、望郷の思いを込めた「内地」と「外地」なのだ。東北、北海道は大和朝廷成立以来の領土拡張欲に強く彩られた、侵略戦争の結果であり、常に辺境扱いだった。(そもそも道の奥と書いて陸奥なのだ)
世界史的に見て、だいたい植民地は独立する。本国の搾取に耐えられないからだ。だから既に独立した地域は別として、北海道と沖縄は独立する余地があると思うが・・。(北海道民はジオン公国ほど人口がいないから、難しいかもしれない)
脱線したので話を戻すと、我がルーツの母系は、三代前、つまり母、祖母、祖母の父あたりまでしかわからなかった。3代前のひい爺様は秋田から樺太に移住したようだ。樺太は日露戦争の頃からロシア人と日本人の混住地になっていたから、おそらくその頃に移住したはずだ。母方は曹洞宗の檀家だったので、おそらく下級武士だったのではないかと想像している。爺様は、樺太の炭鉱で働いていたが(ルーツわからず)陸軍に徴兵後、樺太の守備隊で戦病死。母子家庭のまま終戦を迎え、樺太からの引き上げ船に乗るまで2年ほど抑留。その後、北海道に引き揚げてきて芦別で受け入れられた(その頃は炭鉱都市として人口が膨大していたため)ということのようだ。
つまり、自分のルーツを辿ると富山と秋田のミックスで、家系図が遡れるような家柄でもなく、典型的な外地人、植民地人ということになる。だから子供の頃、時々食卓に出てきたわけのわからん食べ物(おそらく由来は北東北から北陸地方の農民料理)には閉口したものだ。青菜の漬物を味噌で煮たものは、どうやら富山の山間部の料理のようだ。ハタハタの煮魚もよく出てきたが、あれは間違いなく秋田ルーツだろう。糠ニシンというニシンの塩漬けも、よく食卓に出ていた。糠ニシンなどは今や北海道の居酒屋で食べる特殊嗜好品のような気もするが、あれは北陸のへシコ(サバの糠漬けなど)が北海道的な変化を起こしたものだと思う。保存性が高いので、日本海沿海部で作られたものが、北海道山間部・内陸部にまで運ばれていたようだ。だから秋田・富山ルーツの食べ物というより、北海道全域的に広がっている「日本海沿岸部文化」だろう。
樺太で育った母が言うには、ししゃもとは岸辺に溢れているものを一斗缶にいっぱいに入れていくらという単位で買ってきて、自分で干すものだったそうだ。飯のおかずより子供のおやつみたいなものだったらしい。これは樺太文化というべきだろう。だから、実家にいる間は食卓にししゃもが出ることは極めて稀だった。スーパーで売っているししゃもはししゃもではないというのが母の持論だったからだ。などなど、いろいろなところに日本海沿岸文化は色濃く残っているのが、北海道の文化的ルーツとも言えそうだ。
ただ樺太に行った秋田からの移住者はナマハゲ文化を持ち込まなかったのは確かのようだ。秋田と言うより男鹿地方の文化だと言い切れるとも思えない。おそらく、樺太では稲作ができなかったせいで、あの独特のワラ装束が作れなかったからではないかなどと思っている。また、外地人は本国に対する文化的な渇望というか、こだわりが強かったようだ。たとえば全国各地で様々な盆踊りがあるが、北海道でも地域によって微妙なスタイルの差がある。地域によってはそれぞれの移住者の本拠地のスタイルが伝わっている。しかし、炭鉱地のような多種多様な地域から人が集まった場所では、ミックスされて北海盆歌みたいなものになった。今や、そのミックス形態が標準化し伝統的などと言われる。
しかし、ナマハゲのようなビッグイベントが根付かなかったのは、やはり何かの理由があるのだろう。ただ、その理由が思い当たらない。個人的には、北海ナマハゲみたいなのが残っていてくれれば楽しかったろうになあ、などと思うのだが。