書評・映像評

ライドンキング 強い統治者願望のファンタジー

こんな大統領に日本を面倒みてもらいたい?

Ride-on Kingなのかな? 表紙 by Amazon

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動物にまたがり、ライドオンしたいというのが趣味の某国大統領という設定はなかなか良い。

大体において、転生物の主人公は「誰でもない市井の無名人」が、訳のわからない状況で強制的に転生させられて、自分の中にある「何でもないと思っていたスキル」を活用し、困難を切り抜けるというものだ。
そのセオリーを大幅に突き抜けて、小国とはいえ革命の闘士上がりの大統領、統率力あり、カリスマ的魅力あり、戦闘能力高し、というブッチギリの能力を発揮し、悪の帝国を挫くみたいな話になっている。ただし、動機は「乗ったことのない動物に乗りたい」だから、ご褒美はドラゴン騎乗だったり、熊にまたがりお馬の稽古的なことになる。もともとのスキルレベルが高いので、周りが簡単に同調するし、人民を愛する大統領の性格が「水戸黄門的正義漢」キャラを素直に体現する。
この正義の味方的キャラは、結構手垢がついているので造形が難しいのだが(いわゆる、クサイキャラになりがち)、この大統領にはその無理がない。当然、悪い者たちをちぎっては投げ、グシャグシャに叩き潰し、最後にありがたいお説教を宣うことも可能だ。

周りの世界は魔法あり、魔物有りのファンタジー世界だが大統領の周辺はガチのバトルモード。いや、この突き抜け方が良いのだろうね。3巻目になり、だいたい周辺キャラも出揃い、世界の説明も終わり、この後は大統領が「困った人民や民衆」を救うべく、悪い王様たちをやっつけるというストーリーになると思うが、それはそれで楽しみだ。

この先でライドオンできそうな魔物といえば、飛行形態では当然ながら竜の一族、海棲類では鯨、イルカなども良いが、イカとかタコもありだろう(クラーケンに乗って水中爆走)。4足歩行動物では狼とか、象も待っている。変わり種では蛇もありそうだ。そして最後は悪の機械帝国から汎用人型機動兵器、巨大ロボットを奪取してライドオン操縦で決まりだろう。

この先も楽しませてくれるに違いない。

書評・映像評

一路 泣かせの次郎は健在だった

浅田次郎という作家は、デビュー当時のヤバい人たちとの仲を書き記したシリーズでは、軽妙でおかしみのあるニヤッと笑いたくなる話を書いていた。それからしばらくして、いわゆる歴史大作を書き始めてからは、重たいシリアスで輻輳した世界を描いては権力と個人の不条理を嘆いていた印象がある。その歴史大作を描くあたりから、泣かせの二郎としての本領を発揮していた。清朝末期の宦官の話や幕末新撰組の一隊士の話などで、泣かせの二郎は開花したと思っている。
泣かせの最高潮は「鉄道員」であり、そこからなぜか泣かせの次郎は笑かしの次郎に戻ってしまった。

表紙 by Amazon

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そんな笑かしの次郎が、幕末の参勤交代の騒動を描いたこの作品では、基本的に殿様と行列の先頭を務める先輩武者が笑いを取る中心となり、お家転覆を狙う悪者一味を、なりたての行列責任者がなんとか悪事を阻止しよう努力する正義の味方役となる。ずいぶん力の足りない正義の味方だ。
ところが、笑かしの次郎は悪党一味を徹底的に悪者に仕立て上げようとはせず、首謀者が悪行をためらうようになってしまうというだらしない悪党ぶりを晒す。この辺りこそが、軽み、おかしみ満載であり、ニヤッとしたりクスッとしたり、ともかく軽いお話として筋が続いていく。ところが、笑いを取るはずのバカ殿様が、意外と質実剛健的な良い殿様であることが判明するあたりで、幕末の武家政権の揺るぎや弛みを暴くことになる。笑かしの次郎が、瞬間的に消え、亡国を予想しながらそれを自分の手で正そうとはせず、将軍家と共に滅んでいくので良いという賢主、賢臣ぶりを見せる殿様に、微かに泣かせの次郎が垣間見える。

しかし、それもシーンとしては軽い。情けない主人公たちが参勤交代を終え、確かに成長したあたりで話はハッピーエンドで終わるが、この数年後には戊辰戦争が引き起こされ、主人公たちの故郷であり領地である西美濃、関ヶ原の近くは西軍の蹂躙に会うはずだ。ハッピーエンドの先には会津の、新撰組の悲劇と同じ、幕府軍対反乱軍(この時点で官軍とは詐欺的呼称でしかない)の内乱しか待っていないのだ。
それを語らずに終わるところが、泣かせの二郎 Part2 の優しさなのではないか。

ちなみに領主、領国を調べてみたが、どうやら騙しの次郎に引っ掛かったらしく、架空のもののようだ。

書評・映像評

日本史の学び直しとして 「日本史」講義

学校で習う歴史は面白くない、特に日本史が苦手だった。それが最近は日本史が面白い。

表紙 by Amazon

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「出口歴史本」はいつ読んでも面白い。特にこのゼロから学ぶシリーズは、地口が関西弁であり、その軽妙な表現がユーモアあふれているため、実に読みやすい印象がある。しかし、実際にはかなり骨太の歴史解説書なのだ。

最近は歴史の見直しが急速に進んでいるようで、昔々に歴史の授業で習ったことは、相当に修正され今では間違った知識になっているようだ。例えば、鎌倉幕府の開府は1192年(いい国作ろう鎌倉幕府と暗記したものだった)が、実際の東国武士の支配が始まったのはもっと前であり、1185年あたりからが実効支配開始ではないかと言うことらしい。文章に残った歴史資料の再点検と言うことで、歴史の解釈が異なると言うのも面白いことだ。

また、鎌倉幕府は全国を統治していた訳ではなく、基本的に東日本に住む「平氏」を中心とした地方政権であったとか、武家政治が始まっていても、公家と寺社などの旧勢力はそれなりの領土(荘園)を持ち、武家政治に反発しながら存在したとか。こんなこと歴史の授業では習わなかったぞと言うことがゾロゾロ出てくる。

確かに歴史は勝者が作るものであるから、どんなに平清盛が良い政治をしていたとしても、鎌倉幕府の公式見解は平氏悪者であり、源氏は善玉になる。そもそも源氏の直系政権は3代しか続いていいないし、鎌倉幕府自体が東国地方政権で、領土の揉め事調停権(裁判権)と警察権(司法)を持っていただけと聞けば、鎌倉幕府が全国統治していたとは思えない。まして、元寇が引き金になり鎌倉幕府は倒れるが、その原因も全国の武士を戦時動員したのに、恩賞(給料)が払えないための反乱などと言う、身もふたもない話なのだ。どこかの小国のクーデターみたいな話だ。

勝者が自分の過去を飾りたて美談にするのは、歴史の常でありそれを非難しても仕方がない。室町幕府は統制が弱かったように記憶していたが、意外とパワーゲームには強かったようで、鎌倉幕府ができなかった全国統治(武士のみ)は達成したらしい。
そもそも鎌倉幕府の制度設計は平清盛が志向したグランドデザインの踏襲だったと言うことであれば、鎌倉、室町と続く源氏政権(東国武士政権)は、あまり能力があったわけでもなさそうだ。こんな話は学校では習っていないな。

こんなことを学校で教えてくれていれば、もっと日本史好きだったろうに。

書評・映像評

名優高倉健と降旗監督

勝手に命名した降旗監督の「健さんと女優三部作」
81年 駅Station
83年 居酒屋兆治
85年 夜叉
この後10年以上間を開けた後期三部作もあるが、やはりこの頃が健さんの一番脂の乗った時期だったような気がする。

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一年おきに公開された3作だが、その当時の美人女優と健さんの絡みで淡々と語られる男と女の話。
その最初が「駅」で、倉本聰原作のオムニバスストーリー的な物語になっている。

健さん扮する警察官が「銭函駅」「増毛駅」そして陸の孤島「雄冬」・・駅はない町で話が進む。銭函、増毛どちらも北海道でも相当なローカル駅で、両駅ともに冬の雪のシーンが映像の記憶として強く残る。
降旗監督は雪の季節の海の絵が好きらしい。
今見れば、銭函駅で駅弁が売っていたり、陸の孤島であった「雄冬」には、映画で言われている通り国道が通じて孤島ではなくなっていたり、隔世の感がある。古い映画を見返すと、その当時の記憶が蘇るのが楽しみだが、現代の若者には理解できないことも多いのだろうなと感じたりもする。
「探偵はバーにいる」シリーズでも、同じように冬のススキノ(北海道)が描かれているが、その風景が微妙に違っているのは、やはり時代の差なのだなあ。

北の国からの放映が81年10月からであったことから、この作品も同時期に倉本聰が書いていた脚本なのでろう。テレビと映画の差はありながら、絵柄が似ているのは納得するところだ。

映像的には、当時の風潮、流血シーンが露骨にあったり、逆にベッドシーンが抑えられていたりと、なかなか映画の中の「モラル的な表現方法」の違いが見えるのも面白い。やたらとタバコを吸うシーンが多いのも時代の違いだろう。

この映画の見所は、やはり倍賞千恵子の芝居で、健さんとの関係がもう一息と言うところまで進みながら、結局は破局。警察を辞める決意をしたにもかかわらず、結果的に同僚を撃った殺人犯を射殺してしまう健さんの複雑な思いがそれを彩っている。主役は健さんなのだが、倍賞千恵子が押しのけたような存在感を見せている。「幸せの黄色いハンカチ」で共演した時は出所する夫を待つ抑えた演技だったが、この作品ではその正反対で健さんの抑え気味な芝居を押し除けるくらいの勢いだ。
「樺太まで聞こえるかと思ったぜ」と言う健さんのセリフが象徴的だ。

倉本節と降旗描写が相まって、健さんと美人女優の物語になっていくのだが、個人的にはこの当時の烏丸節子が一番綺麗だったような気がしている。また、一番最初に登場するワンシーンだけだった石田あゆみの泣き笑いの表情が、実は一番印象的だった。
降旗監督作品では、後年の「鉄道員」の広末涼子に匹敵する「女性の綺麗な瞬間」を切り取った名シーンだった。

不倫の上の離婚、殺人犯を兄に持つ女の離郷、昔の男を今の男に殺される女、三者三様の女の別れを描いた物語は不思議な印象を残したまま終わる。
この終わり方は、やはり「網走番外地」的なことなのだろうな。

書評・映像評

蜘蛛ですが、なにか  

現代的会話饒舌体の極致か

表紙 by Amazon

饒舌体は古くはサリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」、そして庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」あたりで一般化された一人称の語り口だと思う。その後、椎名誠のエッセイ「さらば国分寺書店のオババ」あたりから言われるようになった「昭和軽薄体」辺りで確立された。
「僕は」「わしは」「俺は」ではじまる思考をそのまま吐き出すような文体だ。ラノベではいわゆる一人称視点での物語が多いのが、あまり饒舌たいが目立つことはないのように思う。現代的な単語を使いながら実のところ文体自体は保守的というか、標準的な書き手が多いような気がしている。ところが、この本の著者はまさしく平成最後の時期に新饒舌体を打ち立てたのではないか。ラノベ全部を読んでいるわけでもなく、似たような語り口の作家がいるのかもしないとは思うが。


ストーリーはよくある転生もので、授業中の高校教室内での爆発によるクラスメートの集団転生、それも人族以外の種族にも(モンスターにも)転生するというあたりが多少ユニークだが、転生先は魔術が通用し、魔物が人族の天敵であるというおきまりのパターン。

この話のユニークさは、主人公が人以外に転生したというあたりなのだがこれは先駆者としてスライム転生ものが大ヒットしているので、二番煎じと言われればそれまで。コミュニケーション障害気味のクモが主人公というあたりは、屈折キャラが主人公になって一人称で喋る(語る)という点で、まあまあ面白い設定かもしれない。

もう一つの特徴として、登場人物への感情移入が難しい。まるで、ト書きを読むような立ち振る舞いとでも言えば良いのか、主人公である蜘蛛のモンスター以外に、それ以外のキャラクターの感情が受けとれない。その結果、主人公である蜘蛛子の成長物語では、それなりの面白みも感じられるのだが、他のキャラの絡んだ話になると、まったく違うストーリーかと言いたいくらい平坦なものになる。

崩壊しつつある世界であり、それを支えようとするものと、崩壊を加速させようとするものの戦いが設定上はあるのだが、そのどちらのサイドのキャラにも、必死さというか、必然的な努力なのだということが感じ取れない。そうなると蜘蛛子の成長ストーリーが止まると、話自体が停滞する。
実際、7巻あたりから急速に話の展開が遅くなり、質的な低下とすら言いたいくらいだ。

ラノベの典型として、巻数が伸びるごとに質的劣化が起きるのは、希薄な設定、あるいは簡素な設定しかなく、人気が出て巻数が伸びると世界展開に耐えきれなくなるせいだ。一般的にシリーズ物で、大長編化している成功作では、だいたいが1話完結式になっている。キャラのサイドストーリーで引っ張るという手法は、週刊少年ジャンプ的ではあるが、あれは刊行ペースが早いからできる荒技であり、1年に2−3冊のペースでは、持たない手法なのだろう。

物語としては、そろそろおしまいが見えてきているようで、伏線を回収しつつ収束させる段階だと思われる。尻切れとんぼにならない程度にはまとまってきていると思うが、夢落ちなどのどんでん返しは期待しないので、兎にも角にも無事最終巻を迎えて欲しい。浅い巻数の段階では全くキャラ立ちしていなかった連中が、なにやら心の葛藤を見せ始めているので、案外最終巻では大化けするのかもしれないと期待しつつ。

ちなみに、この蜘蛛子の話のきっか絵になったスライム転生ものでは、最新刊は物語破綻としか言いようがない「少年ジャンプによくあるキャラ総出演の大乱闘」だった。良くも悪くもラノベが少年ジャンプ直系の子孫であることの良い見本だろう。この話も、大団円とは大乱闘と同じことになるのかという危惧を抱きつつ。

書評・映像評

未来のミライ

細田式ファミリー劇 となりのトトロ?

これはちょっと細田監督作品として異色の作品なのだろうか

未来のミライ DVD by Amazon

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未来のミライはトトロだった

主人公は4歳ぐらいの子供で、それ以外の登場人物は父と母、生まれたばかりの妹、祖母と祖父、そして曽祖父、ペットの犬。これでドラマが作れるかと言いたくなるシンプルさだが、細田式アニメはいつでも登場人物が少なめなので、そこはあまり問題ではないようだ。主人公が、妹が生まれたことで母と父からの愛情が減ったと訴える幼児というのは(これ自体は極々当たり前の光景だろうが)、それをドラマにしていくのは結構な荒技だ。

どうも冒頭から感情移入が難しいテーマだなと感じた。育休がてら在宅仕事になった夫に、最初の子育ての支援不足を言い募る妻、そして母としてはつきまとう息子に怒り出し自己嫌悪するのが話の振り出しだからげんなりとした。現代の共稼ぎ夫婦像というのはこんなものかと暴き立てるだけのアニメなど面白いものかと思う。どこにでも転がっている現代の欠陥ファミリーを見せつけるのにアニメがいるかと。

ところが、そこになぜか主人公の前に秘密の通路が開通する。通路から現れたペットの犬が人間化し、切々と現状の待遇改善を要求する。高校生になった妹が現れ、主人公4歳に兄としての協力を求める。このあたりから微妙に家族の背景が語られ始める。主人公は、散らかしたおもちゃの片付けをしろと叱り付けている母親に不満を抱いている。すると秘密の通路が空き、母親の子供時代に飛び込み、母親と盛大に部屋をちらかしまくる。その後、母親と祖母の会話から、子供の頃から結婚するまで整理や片付けが苦手だったとわかる。つまり母親とは自分ができなかったこと、嫌いだったことを子供に押し付け、そしてそのことに自己嫌悪をする存在として描かれる。
この後も秘密の回廊を通じて曽祖父と合い、父親との関係を立て直すエピソードや、家族旅行に駄々をこねて参加しないといったところを、未来の自分(高校生)に窘められるなど、ファミリーのすれ違い、行き違いなどを延々と描いている。親という大人の理不尽さ、自分勝手さ(自分が押しつけたことに対して自己憐憫と自己嫌悪を吐露するあたりが嫌らしい)を遠慮なく暴き出す。

エンタテイメントの先に意図したこと七日

正直どこにオチがあるのかと言いたい。主人公が幼児ということもあり(その割に随分大人びだ物言いもしたいするのだが)、あまり突っ込んだところまで説明しない。ただ、周りに起きた情景を置いていくだけだ。なぜ未来の妹がやってくるのかとか、過去の母親と会えるのかという説明はなくても良いが、それで成長する主人公が4歳では成長の幅もたかがしれている。

ただ、これを宮崎作品「となりのトトロ」と並べてみれば、なんとなく見えてくるものがある。トトロという存在は妖怪であるにせよ、妖精であるにせよ、現実的にはあり得ない体験をさせるトリックスターであった。この話の中では未来のミライ(妹が高校生になった姿)がトトロ役を務めている。トトロ世界では、母親が入院して父親と姉妹で住むことになった欠陥ファミリー状態を、妹メイが納得せず暴走する話だった。そしてこのミライ世界では、母親が妹を生み自分をかまわなくなり、愛情が失われたのだ悲しむ主人公が、トトロ世界のメイ役となり、妹の未来のミライがその救済役となる。(さつき+トトロといった役回り)

最終的にはちょっとだけ成長した主人公と、ちょっとだけ相互理解がました夫婦になったファミリーができましたとさで話が終わる。この辺りもお母さんに届け物をして納得したメイとさつきの姉妹と同じ構造だろうが、時代が経った分だけ(作中でも現実でも)ミライ世界での解決は現代的であり家族間の課題は中途半端なまま放置されている。

細田作品は、基本的に家族の話だ。家族の欠陥、あるいは家族からはみ出した個人が再生する足掻きを描いた作品といえば良いだろうか。今回は、現代の家族をそのままの姿で観客の前に放り出し、実はギクシャクした欠陥が多い現代ファミリーでも、ちょっとだけ視点を変えて、ちょっとだけ考えを変えればなんとかなるんだよというメッセージを置いてみましたということだと思う。そして、その手法に妖怪?妖精?トトロではなく、なんらかの形で未来からやってきたタイムリーパーな妹を使ったということだろう。

家族の話の先にあるものは?

細田作品として、優れたエンタテイメント性を持つ作品群「時かけ」「おおかみこども」「バケモノの子」をみてきただけに、やはりエンタテイメント性、物語のワクワク感を期待してしまうのは仕方がない。残念だが、この作品はエンタテイメントとして期待のレベルには遠かった。おそらく意図してエンタテイメントではなく、家族というものを、ちょっとフォーカスをずらして描いてみたということなのだろう。実写映画で言えば、降旗監督作品に似た風合いというか、似たような匂いを嗅いだような気がする。次回作に期待。

書評・映像評

機動戦士ガンダム サンダーボルト

スピンオフ作品というべきか、新解釈というべきか

機動戦士ガンダム サンダーボルト 表紙 by Amazon
ちょっと見づらいが「ザクタンク」

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機動戦士ガンダム サンダーボルト  救いのない物語

日本のアニメ界で、ヒット作の続編を作ることは、ままある。いわゆるパート2作成後のシリーズ化として、宇宙戦艦ヤマトの続編が作られたあたりから、柳の下のドジョウを何匹か吊り上げる策は定石となった。
ウルトラマンや仮面ライダーのように、主人公とメインキャラを変えながら延々と続くケースや「サザエさん」「ドラえもん」のように時間の流れが止まったままの永遠劇が続くパターンもある。
アメリカ映画であれば、Xメンやアベンジャーズのコミック実写化シリーズも似たような形であるが、ウルトラマン的な同一世界の流れの中で共通キャラが出入りしているという感じだろう。

しかし、圧倒的な支持で本編の周りに枝編が増殖して、いわゆる「サーガ」になっているものといえばスターウォーズに尽きる。本、コミック、アニメ、ゲームを含めメディアミックスを多様に活用するお化けコンテンツだ。ルーカスが作った世界を、周りが寄ってたかって広げてしまい本編以外の世界の方が精緻になってしまった感がある。
これに対抗しうる広がりを持った日本製コンテンツと言えば、機動戦士ガンダムになるだろう。1979年初放映以来、延々とその続編、枝編が作られ、スピンアウト作品も多数ある。ただ、面白いのがガンダム世界は映像とゲームでは拡散したが、「本」としては広がりを見せなかった。ここがスターウォーズシリーズとの違いだろう。
原因はおそらくガンダムの原作を描いた巨匠?のせいなのだが、「本」では広がらなかった世界を描き続けるアニメーターたちが、映像世界ではますます広げているのだ。ガンダム初放映の年に生まれた赤ん坊が、今や40歳になる。彼らが今のガンダムクリエイターとなっている。リアルタイムでガンダムを見た世代はすっかりじじいになってしまった。

ガンダムの裏側のエピソード 太田垣ガンダム世界とは

そんなじじい(失礼)ガンダムクリエイターの一人が太田垣康男氏だ。1967年生まれということはガンダムを小学校から中学校にかけてリアルタイムで見た、最初のガンプラ世代ということだろう。とてもとてもガンダムが好きで、そのままじじいになってしまったのだなと思う。だから、彼の描くガンダムストーリーは、宇宙世紀0079から始まる一年戦争とその後の時期の話だ。そして物語の中では、戦争の後始末をするための実験機同士の、いわば局地戦になる。本編世界では既に一年戦争の後の内乱期が動き始めている頃だから、やはり地域紛争の一戦闘でしかない。そこに登場する敵味方のキャラは、どいつもこいつも過去のしがらみを解消できないままの劣等生ばかり。明るい話には到底なりそうもないし、実際に暗いままだ。それでも引きつけられる物語となるのは、正義の味方が登場しないことだろう。
ガンダムの本編では、主人公アムロが所属する地球連邦軍サイドが正義とは描かれてはいない。それどころか戦争相手のジオン軍に属するシャアの方が、因縁を抱えて復讐を遂げるべく暗躍するという、ダブル主人公的な物語であった。正も邪もどちらにもない、ただ戦争という状況の中で壊れていく人間を描き続けるという、ある意味で青少年向けアニメの勧善懲悪的お約束を最初から守らない問題作でもあった。

この太田垣作品も、本編と同様に救いのない人間関係、地球連邦が戦争の裏側で行なった非人道的実験を隠蔽するための作戦を描いている。戦争終結後も戦い続ける「敗戦国ジオンの残党」対「悪事を働いた地球連邦軍」との意義なき戦闘。どちらが勝っても、何か良いことが起きるわけでもない戦闘。救いのない物語だ。
すでに14巻まで話が進んでいるが、おそらく完結までは最低5巻ほどが必要だろう。連邦軍のガンダム乗りは重大なトラウマを背負ってしまい、当面は再起不能だろうし、反乱軍も大きなダメージを受けて動きが取れない状態だ。その辺りの紆余曲折をうけて、また話は宇宙で進むことになるのではと思うが、ラストシーンは機動戦士ガンダム最終話のようになるのではないか。いや、それを描きたくて太田ガンダムは続けているのではないかと想像している。

あの頭部を失いながら天頂を撃つガンダムの姿は、ファーストガンダムの中で屈指の名場面だと思う。太田垣ガンダムでも、あそこを描きたいのだろうなあと推測している。ただし、今回は宇宙を撃つのはガンダムではなくザクだろうけれど。

書評・映像評

野性の証明 40年ぶりに見た

「お父さん、怖いよ・・・・」 このCMを見たことのある人たちはすっかりじじいにいなってしまっただろう。40年前の作品で、薬師丸ひろ子デビュー作で有名だが、実は昭和エンタテイメントの名作だ。

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野性の証明 ・・・もはや古代の話

自分の中ではそんなに前のことと認識していないが、世間的に見るとほぼ過去事象とされることは多い。20年前のことであれば、古いと言われてもしかたがない。2000年前後の映画や本の話は「古い時代」の作品となる。それ以前となるともはや「古代」なのかもしれない。確かに最近、バブルの時代ってなんだったのかと聞かれることが多い。1990年前後に生まれた世代が社会の中堅層になってきたからだろう。となると1978年公開の映画など、超古代ということか。1980年前後といえば、角川映画の全盛期で超大作と言えば角川映画を意味したような時代だった。バブルが進行する前の、日本社会全体が圧倒的な右肩上がりで驀進中という景気の良い時代でもあったから、ハリウッドの大作に匹敵するような日本映画を作るという、挑戦的な意思もあったのだろう。

昭和の時代の自衛隊と暴力描写

お話の中身はいろいろと当時も突っ込みどころはあったのだが、「自衛隊」の当時の扱われ方が色濃く出ている。あの当時は、自衛隊を存在悪的に語ることも多かった。個人的には高校時代、自衛隊にはだいぶお世話になっていたので、悪感情は持っていなかったが、左翼が強い地方都市で生きていたので、一般的には自衛隊に対する風当たりは強かったような記憶がある。
高倉健が演じる自衛隊特殊部隊など、今の時代であればかなり好意的に描かれるような気がするが、あの時代ではやはり「暗く疎ましい」存在としての描写だ。地方都市の悪徳政治家みたいな話も当時は多かったが、現代ではあまり語られないテーマだ。20年あまり続いたバブル崩壊後の経済は地方都市の活力を根底から叩き潰したので、地域の豪腕政治家・地方財閥などという存在はいまや成立しないのだろう。(今でもそんなのいるのかという感じだが・・・いるのかなあ)
昭和映画の特徴でもある、過激な戦闘シーン、殺傷シーンだが、今ではあまり見られない凄さがある。これに類似するリアルさといえば、ゾンビ映画の戦闘シーンくらいか。この映画が作られた以降、急速にCG技術が進化し、CG全盛となった現代では、あまりグロな映像は作られない傾向にある。だから、この映画の戦闘シーンは、東映任侠映画で鍛えられた暴力描写のの到達点と見ても良いのかもしれない。
ラストシーンは、宇宙戦艦ヤマトと同じで特攻なのだが、やはりこの時代の美学は「自己犠牲と滅び」にあったのかと、再確認させられた。実は一番記憶に残っていたのはテーマ曲。映像よりも音の方が記憶に残るものだと改めて思い知らされた。やはり圧巻は、後半に展開されるサバイバルシーンで、戦車とヘリを投入した追跡劇だろう。当然、こんなシーンが国内で撮れるはずもなく合衆国で撮影されたそうだ。「こんな戦車、日本にいたか?」と思って見ていたら、やはり米国陸軍のものだった。当時は自衛隊協力で戦闘シーンは難しかったのだろうなあ。最近では、怪獣退治やらテロ退治やらで、バリバリ自衛隊協力のクレジットが入る映像があるのを見るにつけ、自衛隊を見る目も変わったものだと思う。
全盛期の健さんと薬師丸ひろこを見るだけでも十分価値があると思う角川映画の名作だ。

書評・映像評

とあるおっさんのVRMMO活動記 19

転生物とは違うが、異世界で遊ぶためのやり方 「ゲーム世界」型の典型

表紙  by Amazon

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戦い多少あり、ロマンスなし、ファンタジー系の料理日誌みたいな・・・

最初にタイトルのVRMMOについて説明すると
Virtual
Reality
Massive
Multiple-player
On-line game
仮想現実空間で大量の参加者がプレイヤーとして遊ぶゲームで、コンピュータ相手に一人で遊ぶ旧来のゲームとは異なり、大人数のプレイヤー参加が前提になるので、会話をしたり仲間になったりと、現実社会のようなコミュニケーションが取れる。実際にはまだVRの質が向上中であり、この本の中のような実体験と間違うほどのリアルさはない(はずだ)が、ハマる人が多い。モンハンなどは、MMOとして一番広く知られているのではないかと思う。いわゆる「ネトゲ」という代物で、中毒性が高いらしい。

異世界転送ものというお話について

最近すっかり定着した感のある異世界転送物というジャンルがある。むかしであれば、SFとかファンタジー小説とか言われていた、この世界ではない世界での冒険譚というものだろう。SFでは未来的な話が多く舞台が宇宙だったり、地球以外の星だったりする。ファンタジーであれば、それこそ異世界で魔法が使える、魔獣や異人種がいるというのがお約束だった。なんとなく科学的裏付けがある世界がSF、物理法則を無視した魔法があればファンタジーのような区分けだ。ストーリーは世界設定がどうあれ、そこに巻き込まれた若者が成長するパターンが多いが、主人公が苦心惨憺、甚だ厳しい環境からなんとか脱出するパターンのどちらかになる。

しかし、転生ものではこのお約束ごとが全く守られない。画期的と言えるのか、主人公が全く冒険しないパターンが出現した。
例えば異世界に開いた特異点で居酒屋経営をする。異世界人が押し寄せる人気店になるのだが、そこで起こるのは冒険でもなく、下町で起きる人間関係のもつれ的なストーリーだ。(フーテンの寅さん的世界、渡る世間に鬼的世界というべきか)
また、冒険をすることはするのだが、主人公が人以外になってしまうと、感情移入がしにくいだろうと思う。しかし、主人公がスライムになったり蜘蛛になったりしても人気がある。

異世界に行くのではなく、仮想現実世界へ意識を飛ばすというパターンは、まさしく今日的な設定だが、主人公が現実世界では死なないのだから、まさしくゲーム感覚の冒険になる。こうなれば下0無ない世界が意識の上では第二の現実ということか。
他には、死んだら異世界にいましたという「巻き込まれ型転生」が多いが、自分から異世界に行ってしまう「現実逃避型」や、自分の意思にかかわらずさらわれてしまった「誘拐型」、その変形として仮想現実世界から抜け出せなくなった「拉致型」などもある。
どちらにしても転生ものの原点は、「今とは違う誰かになったら(それも今とは違う世界で)、俺だって結構すごい」という話だ。現実に存在する新宿警察署の刑事になったり、自衛隊の海外派遣で事故に巻き込まれたりというリアル感は薄い。ラブ・ロマンスもあることはあるが、好きな子の耳がウサギや猫の耳だったり、長かくて尖っていたりする人以外との恋愛であることも多い。

とあるおっさんの・・・というこそ平成のストーリーテリング

ということで、この「とあるおっさん・・・」についての話だが、すでに20巻近くになる大編だ。webでの連載から書籍になるという転生ものではよくあるパターンで、おそらく人気の原因は前述したような「冒険しない」時間と「冒険している時間」のバランスが良いことだろう。ネットゲーム内の仮想世界なので、実際に傷付いたり死んだりすることはない。主人公は普通の会社員で30代後半、独身というゲームに没頭するには良い環境だ。話の中ではほとんど現実世界の描写はない。現実ほどト書きのような世界であり、仮想現実内のゲーム世界の方がよほどリアルに描かれている。
冒険しない時間は、料理をしたり、加工品の原材料を集めに行ったりする。たまたま作った料理が売れそうだと、屋台を開いて販売する。稼いだ金で装備や道具を買う。実に、資本主義的社会がゲームの中では幅をきかしている。ただ、これだけでは飽きるのだろうから、たまには冒険に行くのだが、これもご都合主義的に世界のキーマンに次々と絡まれ(惚れられ)、あれよあれよと圧倒的なスキル、技能、能力を獲得する。そして超人的な問題解決能力を示す。

この作品が、現在隆盛を極めるライトノベルの一つの頂点であるのだろう。
その特徴は、
「頑張りすぎない」 冒険もそこそこ、冒険以外の活動で世界を経験するのが主眼
「やるときはやる」 主人公と関係が深いものの苦境は全力で助ける。が、失敗してて痛い目に会うこともある。
「箱庭的世界構築が好き」 現実世界とは違った部分の隅っこを精緻に描き出す。主人公もおなじことをしているメタな世界構築もあり。

平成アニメーションの収斂効果

異世界で「サザエさん」や「ちびまる個」的日常を語りつつ、「ワンピース」的な冒険と「ドラエモン」的ガジェットが必須であり、同じく「ワンピース」的な人外のモノたちとの交流がベースにある。まさしく、現代日本アニメの総決算的なストーリではないか。
少なくとも著者が成長する過程で見聞きしたアニメ世界が、無意識にか意識的かはわからないが、強く反映されているのは確かだろう。他のライトノベルで長く巻数が伸びている著作も、同様な傾向にある。エンタテイメント作品の基礎教養としてアニメの理解は必須なのだ。一方、同じくアニメ的な要素として「キャプテン翼」に代表されるチーム力、仲間との結束のような要素は薄まっているようだ。これも少年ジャンプ的世界の影響力の弱まり(実際にジャンプの発行部数は減少し続けている)があるのかもしれない。ジャンプの中では勧善懲悪もさることながら、悪い奴が改心して仲間になるという構図がある。ところがラノベでは、これを突き放すように「悪い奴は最後まで悪くて、滅ぼされていなくなる」というパターンがめだつ。

この「おっさんシリーズ」でも侵略戦争を仕掛けた「人族」は「妖精族連合」に滅亡させられた。独善的な侵略と差別を行った「ハイエルフ」族も滅亡寸前まで処分された。確かに悪い奴らには容赦ないというスタンスが貫かれている。ではそれは救いがないかと言われれば、そうとは言えない。やはり悪い奴はバッサリ退治するという水戸黄門スタイルの方がスッキリ感がある。少年ジャンプ的悪いやつも更生さえすればいい奴になれるというのは、昭和の教育的欺瞞だったのだと今更ながら思う。言い換えれば、平成30年間かけて、ゆっくり勧善懲悪の落としどころの概念が変わったということだ。今の時代の正解とは「悪い奴は悪いからいなくなっちゃえ」ということだ。
同じように努力すれば最後に正義は勝つ、この概念も揺らいでいるように思える。昭和的勧善懲悪では、最後に正義が勝たなければいけなかったが、平成後の価値観は、正しくても弱い奴は負けちゃうよだ。努力しても勝てっこないこともあるよねと言って、退場していくプレイヤーもたくさん登場する。

この話の中でも、妖精族最強戦士の一人が戦争中に重傷を負い死にかかる。それを主人公が超絶的手段で救うのだが、傷が治っても戦士に戻ることはない。ワンピースであればありえない退場の仕方だろう。あるいは主人公に思いを寄せる妖精族の女王が、暴走して主人公にやり込められる。その後は登場にめっきりと制限を受ける。
この辺りが、平成時代のラノベの底流に流れる「新しい物語価値観」なのだなあと感じている。

もう一つの転生ものの話はまた別稿にて

書評・映像評

ハムナプトラ 三部作

もう20年も前の作品になるのか。原題はMummy 「ミイラ」

BDのパッケージ by amazon

https://www.amazon.co.jp/ハムナプトラ-失われた砂漠の都-Blu-ray-ブレンダン・フレイザー/dp/B006QJT0TG/ref=sr_1_2?__mk_ja_JP=カタカナ&keywords=ハムナプトラ&qid=1571541302&s=dvd&sr=1-2

ハムナプトラとインディー・ジョーンズ

随分前に見た記憶があったのだが、3部作の3作目を見ていなかったので、初めから見直してみた。
1作目のおまけのパートを見ていたら、これは昔作られた「ミイラ再生」のリメイクで、それもかなり前作に忠実に作っているらしいことがわかった。初めて見たときは、インディージョーンズと似ているなあと思っていたが、ちょっと経緯は違うことらしい。

調べてみるとインディージョーンズはこんな設定になっている。
『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(1981年公開)  →1935年のお話
『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』(1984年公開) →1936年のお話
『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』(1989年公開) →1938年のお話
『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』(2008年公開) →1957年お話

ハムナプトラはインディージョーンズシリーズ3作公開後に作られているので、当然影響はあっただろう。
『ハムナプトラ/失われた砂漠の都』(1999年公開) →1923年のお話
『ハムナプトラ2/黄金のピラミッド』(2001年公開)→1933年のお話
『ハムナプトラ3 呪われた皇帝の秘宝』(2008年公開) →1946年のお話

逆に映画の中の世界はハムナプトラの1・2作目、インディーの3部作、ハムナプトラ3作目という時間の流れになっている。
日本で言えば大正の終わりから昭和20年くらいまでのお話(インディー4作目は昭和30年代)なので、蒸気機関車とせいぜい複葉機の飛行機しか登場しない。移動手段としては、馬とかラクダが活躍する時代というのは共通している。ボルトアクションのライフルと、刀を振り回すあたりはアメリカン冒険ムービーの伝統に則っているというべきだろう。お約束のラブロマンスも絡み、良質のファミリームービーだ。インディーシリーズがルーカスとスピルバーグというエンタテイメント制作の両巨頭が組んでいるが、ハムナプトラもそれに負けない力作だ。後発のハムナプトラ 側は当然意識はしただろう。ユニバーサル対パラマウントの対決でもあるのだね。

1993年公開のジュラシックパークでCGによる恐竜シーンが印象的だったが、2000年前後ではCGがふんだんに使われるようになり、あり得ない視点からの映像が当たり前になった。ハムナプトラの1作目は、その画期的なCG映像が魅力だった。ミイラもすごいが、復活した兵隊の戦闘シーンが印象的だったのだ。これはターミネーター・シリーズでも、CG進化により映像が格段に進歩したのと同様だ。ストーリは、ミイラが復活して悪いことをしようとするんで、主人公がやっつけましたとさ、めでたしめでたし、という分かりやすいもの。ストーリよりも新映像技術を見せつける映画だったような気がする。

2作目は、前作で封印された悪玉が、もう一つの悪玉を処理するために復活させられる。この悪玉1号は、実は時を超えて恋人を復活させて二人で幸せに生きていこうという健気な奴なのだが、それを邪魔する奴はみんな敵的なやり放題野郎なので、結果的に悪玉になってしまっている。そして、この2作目でも悲しいキャラとして扱われ、1000年越しの恋をまた成就できないまま、恋人に裏切られ絶望のあまり退場していく。設定的には絶対死ねないはずなので、また復活する目はあるのだが。
2作目最大のびっくりは、主人公の元気な妻が、なんと昔々は悪役の恋人と争っていた戦闘王女だったことで、前世の記憶がよみがると結構な使い手で、おまけに戦闘中はかなり汚い手も使うという悪女ぶり。アメリカ映画で、ターザンとジェーンのような関係はもう成立しないのだということがしみじみわかる。女性は庇護・保護する対象ではなく、自分の横で高い戦闘能力を示す(たまには自分より強い)キャラとして設定される。そう言えば、スターウォーズの最新三部作ではついに女性主人公がルーク・スカイウォーカーの後継者となり「最後のジェダイ騎士」になる時代なのだから。ターミネーターの強いおっかさんからジェダイの騎士まで、アメリカってこんなに変わってしまったのだ。

エンタテイメント・ファミリー映画における日米の違い

3作目は、お子ちゃまがすっかり大きくなって、インディアナ・ジョーンズとその親父みたいな関係なっている。これもアメリカ映画ではよくあるパターンで、息子が父を乗り越えてそれを認めさせるっていうのは、日本映画ではあまり見ない。やはり、結局、男と女の関係、親子の関係、つまりファミリーを描くというのがアメリカ映画の「語られることなのない」基本設定で、仕事の仲間とワイワイやりながらトラブル処理にあたるというのは(つまり家族関係が登場しない)日本的な「語られない」基本設定なのだろう。
典型的な怪獣映画のゴジラ作品群でも家族関係が登場することはない。新作になればなるほど家族関係は不在だ。ただし、もう一方の怪獣映画の代表作、つまりファミリー向け映画である平成ガメラでは、家族関係の葛藤が物語の背景として重要な位置を占める。3作目のイリスでは、家族を亡くした復讐に燃あがりガメラを恨むまま、イリスとなる少女が登場する。正義の味方のはずのガメラが、実はその戦闘行動中に、意識せず人を傷つけているという事態を曝け出したものだ。これはシュワルツェネッガーの「コラテラルダメージ」に通じる思想と言えるだろう。そして、家族の葛藤こそが物語の主軸になった「エヴァンゲリオン」では、主要キャラ全員がなんらかの家族関係トラブルを抱えているという欠陥人間ばかりだった。(イカリ指令の個人的願望のためみんなが犠牲になる話と捉えても良さそうだ。家族の復権ではなく私怨を晴らすため。)
平成後期になり、ようやく日本の映画、動画作品にアメリカ的要素が入ってきたが、それは肯定的とは言えない暗い情念みたいなものだ。どこまで日本の製作者は性格悪いのか根暗なのかと言いたくなる。
日米比較としてだが、アメリア的エンタテイメント映画作品は、いつでも明るい親子関係が主軸にある。親子なしの時は恋人関係が代用することもあるがシリーズ化すると、やはり親子関係に戻る。スターウォーズはエピソード1から6まで親子の話だった。最後の三部作では、取り残された子供(ハンソロとプリンセスの隠し子)が親を恨んでいる話が主軸になっている。おまけに爺さん(ダース・ベーダ)の怨念まだ絡むのだから、とんだ三代記で、この辺りはなんだか日本の人形浄瑠璃的なドロドロさだ。あれだけのエンタテイメント大作でも、親子関係がテーマかと問いただしたくもなる。日本の作品で言えば「男はつらいよ」の寅さん的な人間関係が一番近いだろう。スターウォーズと寅さんの近さというのは意外だが。

ハムナプトラ3作も家族関係を主軸という基本構造はスターウォーズと似ているが、どちらかというと明るい。おそらく主人公のオコーネルが、ハン・ソロに輪をかけたような能天気な性格だからだろう。ぜひハムナプトラ4で10年後の親子関係を見たいものだと思うが、どうやらパート4構想は止まってしまったらしい。残念なことだ。

でに古い映画になってしまったが、まとめてみると楽しいぞ