書評・映像評

横浜駅SF  日常の非日常化

表紙 by amazon

横浜駅sf

ロードムービーという映画のジャンルがある。要は旅をする主人公を描く物語で、少年が旅で成長する、青年が旅で世のほろ苦さを学ぶ的なストーリーと理解している。主人公の性別は問わないが、男の子が登場することが多いと記憶している。

SFでも旅を背景にした物語は多い。「ポストマン」が典型的な名作だ。あえて言えば戦争SFの名作と言われる「宇宙の戦士」も、兵隊があちこちに出張っていく物語といえば、そう言えないこともない。日本SFで言えば筒井康隆の名作があるが、なんと言っても旅作家椎名誠の「アド・バード」が、旅SFでは屈指の名作だと思っていた。

この本も読んでいるうちに、なんだか「アド・バード」に似ているなあと思っていたら、後書きで著者が「アド・バード」が好きで、その影響が・・・みたいなことを書いていたので納得した。

作品世界は横浜駅が全国に膨張していく時代の話で、そこに聴き慣れた単語「スイカ」「自動改札」「青春18キップ」「JR」などが頻出するのだが、自分が理解記憶している単語と作中単語は似ているようで異なっている。このズレ感が楽しい。また様々な世界事象を説明する造語、例えば「構造遺伝界」や「JR統合知性体」、「N700系電気ポンプ銃」などドキドキものの単語が並ぶ。正統SFではこの怪しい造語とガジェットが必須備品なのだが、これが実に楽しく散りばめられている。

主人公が、自分探しの旅に出て、意図せずに巻き込まれた事件が、既存社会を崩壊させる引き金を引くことになったという話なのだが、世界を救うような使命感を最後までもたないまま怪しい世界を彷徨うという、まさに王道的ロードムービーで完成度は高い。悪役も出てこない、敵役も出てこない、淡々とした話の流れが逆に心地よい。

サイバーパンクと言われた諸作もガジェットと造語の嵐だったが、それよりもはるかに分かりやすい。ただ、できればもうすこしこの横浜駅に占拠された日本を覗いてみたいという欲求に駆られる。続編ではその辺りが書かれているようなので、2冊合わせて異世界を堪能することにしよう。

https://www.amazon.co.jp/dp/4062936836/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_4hqcEbDNWX9D2

書評・映像評

明治維新という過ち

表紙 by amazon

この本の主題は、二つあるのだと思う。
一つ目が、「明治維新」という言葉は、昭和初期の軍事クーデター(226,515事件)を図った連中の造語であり、昭和維新を語るために「明治維新」という言葉で美化したというものだ。そして、テロリストが昔のテロを美化するとはとんでもない思想だと断罪する。
二つ目が、「司馬史観」が、明治新政府を賛美するのは間違いだと、これもバッサリ切り捨てる。確かに司馬遼太郎作品は戦国期ものと、明治の前後のものに大別されるが、徳川政権をバッサリ切り捨て、明治政府を無条件に賛美する風がある。そして、自分が巻き込まれた昭和の戦争期前後については、沈黙したままだ。

「明治維新」をどう捉えるかについては、勝った官軍が自分たちを美化したという指摘は正しい。そして戊辰戦争後の明治政府が薩長同盟から長州単独政権になっていく過程で、徳川体勢=悪、薩摩=初めは仲間だが、悪になった、長州勢力=正義の味方、と書き残されたのだろう。そして生き残った長州勢力が陸軍を仕切り、大陸進出から世界相手の戦争へと突き進む構図だというのだ。これもああお胸正しいだろう。
だから、戊辰戦争とは西国下級武士の藩政クーデーターによるテロ組織創出、そして西国での広域連携した上で、現政権たる東国への反乱であると規定する。西日本出身者には、自分達が正義と思っていた歴史を否定されるので、甚だ面白くないかもしれないが、東国出身者、特に東北諸県では強いされるしそうだと思う。昨年も鹿児島で見たのは明治維新150年記念展示で、仙台で見たのは戊辰戦争150年展示だった。いまだに同じ歴史事象の捉え方が日本の西と東では大きく異なっている。

「司馬史観」についての論評も厳しい。ただ、司馬作品が中国戦争から太平洋戦争まで(著者は大東亜戦争と呼ぶ)の前後について、全く書いていないのは度々他の評論でも見る。小説以外でも、司馬氏は明快な論評を避けているテーマであったようだ。徳川体制を嫌い、戊辰戦争前後の(著者いうところの)テロリストを、次の時代を切り開いた若者と描くことに反発があるのだろう。「竜馬が行く」では、「龍馬」と書かなかったことで逃げを打っていると指摘する。吉田松陰、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋など教科書に異人扱いされている長州出身者を、バッサリとならずもの、小物扱いで、昭和に続く悪しき時代を作った元凶と言い切っている。司馬作品を好んで読んでいたが、確かに著者の指摘する英雄偶像化があるようだ時がついた。確かに竜馬が行くの主人公は爽やかすぎるのだ。歴史小説はあくまでも小説であり、ファンタジーなのだろう。実際に、竜馬が、西郷隆盛が、大久保利通があれほど爽やかでいいやつだったはずもないのだ。京都であれだけのテロがくりかえされる中で生き延びたということは、それだけで「良い人」だけではなかったという証明だろう。「いい人」や「軽率でおバカな人」はテロの嵐の中では生き残れない。

論の後半は、戊辰戦争で東北諸藩、奥羽越列藩同盟とならず者官軍(自称)との話になるが、ここはかなり情緒的な話になる。ただ、明治維新ではなく戊辰戦争と言い切る東北人の恨みは、それこそ千年かかる課題であり、加害者視点では理解できない重さなのだということも納得がいく論点だ。ましてや、東日本大地震での福島原発事件がある以上、明治政府対東北諸藩という構造が、平成の世で蘇った感もある。山口県出身の首相が、福島県に行って融和を求めても、なかなか同意は得られないことだろうとも思う。

少なくとも歴史教科書に対する様々な議論がある中で、この本の訴えかける「長州=官軍が作った歴史観に反対する」ということについては、歴史記述の公平、標準化を言う時に、ぜひ考慮しなければいけない論点だろう。

テロリストが作った明治政府を、いいように利用した昭和軍閥が描いた明治維新という歴史。そして敗戦により戦勝国寄りに書き換えられた近代史。少なくとも150年前と70年前の戦争による大混乱で、歴史が歪められたのは(勝った方が自分は正義で、負けた奴は悪い奴だったから退治されたという論理を通した)否定できない。
思想的には偏っているかもしれないが、近代史を再考するには良書だと思う。

https://www.amazon.co.jp/dp/4062936836/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_4hqcEbDNWX9D2

書評・映像評

「百姓貴族」 リアルの農家エッセイ

表紙 by Amazon

タイトルには惹かれて手を取ったのは随分前のことで、1・2・3巻と立て続けに読んだ。それから本屋で見かけることもないまま何年かたってしまい、先日平積みされている6巻を見つけて買ってきた。

十勝の農業の話で、「銀の匙」でも書かれていたリアルな農家の生活や経済観が大量出展されている。都会人の「農業幻想」を木っ端微塵に打ち砕くリアルさが良い。この辺りは生き物を扱う牧畜と大規模な畑作(野生動物との戦い)の話であるからだろう。稲作であれば、この手の話題よりも治水問題、水利権争いや共同作業と機械化のぶつかり合いなどが大きな問題になるので、ザックリと言えば人同士の絡みの話になる。それだとそのまんま社会の縮図にしかならないので、絵的には面白くならないかも。などと考えもした。

荒川家の頑丈なお父さんの強靭ぶりもすごいが、「百合根」が投機的に扱われていたという話で、なるほどと肯いていた。確かにバブルの時期は、農作物でもそんな話があった。夕張メロン初競りで信じられないような値段(たしかひ一玉100万円くらいだったような記憶もあるが)がついてニュースになった。夕張は億万長者の街かと思ったものだ。それから10年くらいして、夕張市は破綻したが。

知り合いの農家に聞いたことだが、作付けカレンダーを作るのはお母さん、それに従って畑で働くのがお父さん、だから、農家の収入はお母さんの知恵によって著しく変動するみたいなことだった。農家も女性主導の社会ということだ。(うーん、これは性的差別にはならないと思うが)
この本を読みながらそんなことを思い出していた。確かに、百姓では王様には成れないが、貴族くらいになれる人はいるのだなあ。

https://www.amazon.co.jp/dp/4403671802/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_.dqcEbEVH2GD1

書評・映像評

永遠のゼロ 百田版太平洋戦記

https://www.amazon.co.jp/永遠の0-講談社文庫-百田-尚樹/dp/406276413X/ref=tmm_pap_swatch_0?_encoding=UTF8&qid=1576289224&sr=1-1

徹底した大日本帝国批判と軍官僚批判

テレビや映画になった物語の原作本だが、全編通して(太平洋戦争の始まりから終わりまでを)、帝国海軍批判でで書き連ねている。戦略なき作戦と失敗の糊塗。兵員の損失を顧みない現場での指揮。様々なノンフィクション・戦史でも語られている帝国陸海軍上層部の無能ぶりがこれでもかと書かれている。後半では、特攻を中心に語られるが著者の怒りは止まらない。兵の愛国心を利用し強要する軍官僚への非難、批判にあふれる。

宮部少尉に託した、それぞれの戦争観

主人公である宮部少尉は、中国戦線から沖縄特攻まで、全ての重要局面で零式艦上戦闘機パイロットとして過ごす。生きて妻のもとへ帰るという命題をまもりつづけるが、それに反発する物も周りに多い。宮部少尉の立場を肯定するもの、否定するもの、それぞれの視点から語られる「戦争の現場」は、辛く悲しい。そして著者は、どの場面でも軍官僚の無能ぶり、無責任ぶりを暴き続ける。

愛国心を強制する者の疎ましさ

昭和の軍国教育と切り捨てるにはせつない愛国心を吐露する若者と、それを利用するずるい上官という構図だが、その一方で、現代日本の愛国心とは何かを訴えもする。ただ、そこには「国を私する馬鹿な官僚に騙されるなよ」というメッセーゾも窺える。確かに、道徳教育だの愛国心だの要求する政治家や、それをよいしょする官僚など、自分のしないことを人に要求する典型だ。こういう輩こそ、特攻で使い捨てにすることで国が良くなると。まあ、腐った政治家は歩く生ゴミみたいなものだから、分別収集が必要だろう。

メディアというものの愚かしさと変わらぬ軽薄さ

そして、もう一つの道化が登場する。某「日の出の太陽」マークの新聞社と思われる新聞記者だ。著者の批判は鋭く毒舌に満ちているが、確かにうなづける点も多い。少なくとも戦前の新聞の複写を読む限り、どの新聞も戦意高揚、イケイケどんどんな記事しか書いていないのだ。メディアが新聞、映画ニュース、ラジオしかない時代に、戦争礼讃、無敵帝国陸海軍と煽った新聞社の罪悪はどれだけ反省しても消えないだろう。ところが、どの新聞も戦後になって反省していない。(自分たちの戦争推進責任を認めていない)
半藤利一氏の著作にあるように、メディアが戦争を引き起こしたと言っても過言ではない。少なくとも煽ったのは間違いない。

結局、メディアも、軍部も、そして民衆も狂ったように戦争に突き進んだ。転回不能点まで踏み込み戻れなくなり、最後には国と民の全てをかけた大博打に失敗した。その責任を誰も取ろうとしない。そこに著者の怒りが向いている。この一冊は、太平洋戦争、当時の名称は大東亜戦争を一人のパイロットに託した通記であり、現代日本に通じる政府と官僚の暴走を諫める檄文でもあるのだ。

書評・映像評

銀河帝国を継ぐもの アメリカン正統ジュブナイル

表紙 by Amazon

どうやら文庫版は絶版らしく、Kindleか、中古での入手

時々、無性に海外SFが読みたくなる。特に、ハインラインやマキャフリーのような、ジュブナイルが読みたい。日本作品ではライトノベルという分類の中に埋もれているジュブナイルだが、アメリカSFではハードな設定ながら、主人公を10代の少年少女に置いた名作が多い。ニーブンやホーガンのようなガチガチのハードSFの対極にあるのが、ジュブナイルだろう。同じように宇宙を背景としても、ハードSFが世界の仕掛けを語ろうとするのに対し、ジュブナイルは少年少女の成長を描こうとする。
だから日本のライトノベルでは、アメリカ的ジュブナイルものが少ない。世界を語りたがる傾向が強いからだと思う。私の作ったこの世界、すごいでしょう的な話がどうしても多くなる。それは、それで楽しめるのだが、主人公たちの成長を描こうとすると、どうしてもはじめの一歩的なスポ根になるか、ワンピース的なキャラの能力増強的な話になっている。どちらも100巻近いボリュームでありながら主人公たちはあまり成長しているとは言えない。

後書きで、作者がハインラインやノートンが好きだと言っているそうだが、確かに正統アメリカジュブナイルSFの匂いがする。主人公が何度も困難に遭いながら、少しずつ大人としての理解をしていく過程を描くものがジュブナイルだ。物語の前半は、まさしくハインラインの「宇宙の戦士」のリコと同じだ。教育担当の軍曹もしっかり登場する。
後半は、主人公のテーマが異文化をもつ人たちとの交渉であり、自分の経験値では推し量れないものとの共存を学ぶステージとなる。これも、アメリカSFではよくあるパターンで西欧文明とアジア文明の衝突と理解のような形で語られることが多い。その類型が、未知との遭遇的ファーストコンタクト、人類と非人類知性体の接触と理解になる。簡単に言えばナイフとフォークの文化で育ったものが、箸の文化に出会ってびっくりということだ。その後、箸使いが上手くなるものもいれば、箸は文化的ではないと拒絶するものもいる。

この作品では、前半はひとりよがりな選民意識に凝り固まった主人公が、世界の見聞を広め、後半では「人」の多様性とそれに対する共感を得るまでを描く典型的なジュブナイルだ。銀河に広がった人類社会も、恒星間航行を可能にする技術も背景としてしか描かれない。作者にとって宇宙や物理世界はどうでも良いのだ。差し迫った人類に対する脅威も存在しない以上、スペースオペラにはならない。ただただ主人公の権力闘争の中での変化を連ねていく。
まさにアメリカSFの本道だろう。

余談だが、こうした少年主人公の成長の物語が日本で語られるのはTVアニメが多い。そしてTVアニメ特有の事情で(放映打ち切り、放映中の方針変更など)、成長の途中で放り出されて物語が終わることも多いのがよろしくない。機動戦士ガンダムはその典型例で、アムロたちは成長途中でほうりだされ、その後の続編でようやく大人になっていることが語られた。(物語としては片手落ちだったと今でも思う)
もっとひどいのがエヴァンゲリオンのシンジくんで、彼は世界ごと放逐された。かわいそうに。
まあ、このアニメ界におけるジュブナイルの酷い扱われようは作り手の欠陥だと思う。そのうち、もう少し真っ当な感性の持ち主たちが「正統ジュブナイル作品」を作り出してくれることの望みたい。

書評・映像評

散歩エッセイではない うひょ!東京と北区赤羽

https://www.amazon.co.jp/dp/4575944696/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_8GB7DbBP3P9WC

北区赤羽

最近の住みやすい街ランキングで赤羽とその隣町の川口が上位に入ったようだ。確かに、埼京線と京浜東北線が交差する赤羽は、都心に出るにも便利だし、駅前のごちゃごちゃ感がなかなか良さげで、山手の小洒落た町より良いかなと個人的には思っている。

天井のかかったアーケード街というのが昔から好きで、地方都市の旧繁華街でアーケード街を歩くと、今はすっかり寂れていますという感じが悲しいなと思うことも多いが、赤羽はまだまだ人の賑わいも多く元気なアーケードだ。
赤羽のアーケード街に似ていると言えば、熊本とか鹿児島の南九州系アーケードか。人の元気さが似ているような気がする。仙台は駅から繁華街一番町に向かう一方的な流れが他の街とは違っているが、やはりちょっと赤羽っぽい気もする。逆に北国札幌や小樽のアーケード街は、実に寂しい。特に小樽のアーケードは寂寥感すら漂う。札幌のアーケードは、すでに外国人観光客に占拠されてしまったので、異国の地だ・・・。

赤羽がテレビの町歩き番組で紹介される時は、決まって飲み屋街、それも朝からオヤジとジジイが飲んだくれている店が紹介されることが多い。これは大阪の南部、通天閣界隈と同じ扱いだなあ、などと思っていたが、それを描き出していたのが初期の作品。今ではそうした飲んだくれ街の紹介はとうの昔に終わっていて、怪しげスポットもネタが尽きたようで、現在はほのぼの系な店を、それも1話完結ではなく複数回掲載という感じになってきている。初期の怪しげな店紹介が面白かったのだが、ほのぼの系もなかなか味があって良い。描き手の力量が上がったということなのだろう。シーンを「切り取る」ではなく、シーンを「描く」ようになったということだ。

Amazonで調べてみたら、「東京都北区赤羽」第1巻は、2009年6月発売だからすでに10年前の作品で、おまけに「印刷」された本は版切れらしく中古本は買えるが、電子出版Kindle版は見当たらない。この初期第1巻だが、たまたま本屋で「表紙買い」して面白かった記憶がある。ただ、その後、本屋で見かけることもなく、古本屋で見かけて続きを1−2冊買った。だから、初期の「東京都北区赤羽」は、今ではすっかりレア本だと思うが、1巻目から読む必要もないので(連続した登場人物がいるわけでもないし)、手近なところから順不動に読み進めても良いだろう。描き手の赤羽を面白がる視線にはブレがないし(面白い話とつまらない話は混じっているが)、赤羽って面白そうな町だなと思って読めば実に楽しい。実際に足を運べばもっと楽しい。

エッセイ漫画は、日曜午後の暇つぶしには最高のお供だ。これと合わせて読みたいのは「百姓貴族」。その話はまた別稿で。

書評・映像評

三多摩原人とは何か 「東京都三多摩原人」   

表紙 by mason

https://www.amazon.co.jp/dp/4022513187/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_XJB7Db3ZFTK6P

三多摩原人

「孤独のグルメ」の原作者のエッセイで、東京都三多摩地区(東京23区の西にある市町村部)をあちこち歩いた記録。

基本的に散歩をして、たまに銭湯に入り、大体は締めに蕎麦屋でビールを飲む話などと書くと身も蓋もないということになる。が、実際には散歩を道具というか口実にして著者の過去にあった三多摩の原風景というか心象風景を語っているので、特別にグルメや名所旧跡を語るわけでもない。だから、ガイドブックとしてはあまり役に立たないし、著者の歩いた場所を追体験してみたいと思わせるようなものでもない。
逆に昭和30年代に生まれ、人生の半分が昭和、残り半分が平成という系譜を辿るには、こうした生まれた場所、そして育った場所の変遷を自分の目で確かめるというのが良い手法だと思わせる。
文体は簡潔で、わかりやすい。著者の本音語りが心地よい、肩肘張ってもいないし、人生を語るような高いところから視点でもない。東は田無、吉祥寺あたりから西は奥多摩の果ての旅館まで、電車と徒歩で歩き回った記録なので、東京西部はこんな場所だという理解の手助けにはなる。しかし、それなら「旅のガイド」を読めと言う話なので、やはり、ここは著者が育った昭和40ー50年代の武蔵野を一緒に感じてみるということなのだろう。24本の短編でかたる武蔵野あるあるみたいなものか。

お散歩エッセイとは、大方そんなものかもしれない。

書評・映像評

降旗監督と名優高倉健 その3

これまた日本海の冬の海が舞台とは 降旗監督は冬の海が好きなのだ

ボックスカバー BD by Amazon

https://www.amazon.co.jp/dp/B00898WK30/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_eW04DbEBY2Y30

勝手に名付けた降旗監督 高倉健と美人女優三部作の第3作。

前2作とは、やはり健さん映画だけに共演者もお馴染みの顔ぶれということもあって、似たような印象がある。ただ、今回は妻役の石田あゆみの抑えた演技が良い。役柄として、とても美人に描かれてはいないが、ちょっとした表情に美人さが出てくる。逆に、魔性の女的田中裕子が、まだこの時は開花前というか、この映画以降に出てくる演技の凄みのようなものが抑え気味だったという印象。
が、何より凄いのが「ビートたけし」演ずる、ダメヤクザだった。この頃はすでにコメディアンとしては円熟期を迎えていたたけしの怪演ブリは素晴らしい。のちの、監督作品に通じる「暴力的なダメ男」は、このころ形成されたのだろうか。

ヤクザの特攻から、日本海の漁師への転身が、あまり無理なく描かれている。刃傷沙汰に飽きたのか、妻に惚れ込み静かな暮らしを望んだのか。そこに不協和音として紛れ込んだ、田中裕子とビートたけしが、街をかき乱し、勝手にいなくなるまでの「冬」の嵐。

山があるようでなく、オチがあるようでなく、ちょっと奇妙な後味の残る作品だった。
この後、しばらく健さんは映画に出なくなる。いったん出ても次作までの間隔が開くようになり、2000年以降の後期降旗三部作まで、静かな時期だったように見える。この80年代の作品の抑えた演技ぶりは、ほぼ完成の域にあったと思うが、実はもう少しコミカルな軽い演技をしようと思っていたのではないかとも想像する。東映ヤクザ映画から始まった自分の演技を、どこかで変えようと思っていたのではないかなと。

結局、それは叶わずに最後の作品まで健さんは、健さんだったような、

書評・映像評

居酒屋ぼったくり 4

表紙 by Amazon

https://www.amazon.co.jp/dp/4434210904/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_yG04Db7X6NB63

東京の下町にある商店街の中、姉妹が経営する一軒の居酒屋がある。通ってくるのは町内のおなじみさんたちがほとんどで、その常連客の気配に合わせて、色々と料理を出す細やかな気配りがある。
その常連客の悩みを、1話完結でつないでいるお話。言い換えてみれば、昔のファミリードラマをそのまま本にしたようなところがある。「渡る世間に・・・」を、もう少し甘めのエピソードにしたような感じか。どの悩みもほのぼのとしたもので、あまり深刻にはならないところが救いだろう。

1話完結で進行する居酒屋の話なので、本当の主人公は「お酒」とその蘊蓄のような気がする。料理のあれこれも書いているが、それは抑え程度で、他の書評ではレシピーがパクリだなどと罵っているものもあるが、それは間違った指摘だろう。この本はレシピー本ではないし、居酒屋のお客さんのあれこれの本だから。

姉妹それぞれのロマンス的要素が、軽くスパイスを添える程度で、生臭い話にはなってこないのも良い点だ。ゆるい設定にはゆるい人間関係が似合っている。ほんわかムードの会話が、この話の持ち味だから、男と女の話が剥き出しになるとちょっと興醒めしそうだ。

この東京の下町という設定は、おそらく江東区砂町銀座だろう。駅からバスで行くほど遠い、近くに大型ショッピングセンターができた、知人の喫茶店が有名な門前町にある(これは門仲の深川不動のことだろう)などと情報を重ね合わせると、あぶり出しのように見えてくる。確かに砂町銀座を歩いてみれば、こんな居酒屋がありそうだ。

ここまでの4巻でキャラはほぼ登場したようだ。この後はキャラ達の順列組み合わせで色々と話は進むのだろうが、現在は11巻まで刊行中なので、のんびりと下町の人情話を読んでいける。姉とミステリーキャラだった「タクの父ちゃん」の関係が進行するのも、シリーズものの良いところ。楽しみなシリーズだ。

書評・映像評

名優高倉健と降旗監督 その2

初めてみた健さんの映画だった

ブルーレイ版 by Amazon

https://www.amazon.co.jp/dp/B00898NA70/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_3zk0Db1F5MJ2G

81年 駅Station
83年 居酒屋兆治
85年 夜叉
と続く、前期降旗監督と健さんの美人女優シリーズ第二作。
散策の中では、一番賢さんがコミカルな演技を見せている。「駅」では警察官、本作ではサラリーマン(元函館ドック社員)で現在は居酒屋のオヤジ、「夜叉」では元ヤクザで今は漁師という役がらだから、確かにあまりシリアスな役ではない。
田中邦衛演ずる幼なじみで高校野球のバッテリーを組んでいた二人が、山の中に釣りに行くシーンが秀逸で、全編の中で一番光る絵だった。
逆に、終盤の葬式を草原の中で行うシーンが、遠くから引いた絵で健さんと残された夫をとっているのも、映像的には素晴らしい。
あまり寄らない絵が効果的な場面が多かったように思う。

賢さんと絡む美人女優は大原麗子で、この頃が彼女が一番光っていた時期のように記憶している。甘めのアルトではなす女優は当時でも少なかったが、今ではほとんどいなくなった。いわゆるアニメボイスでハイトーンで早口に喋るのは、三谷幸喜演出作品がヒットした以降、当たり前になったような気がする。最近ではテレビのニュースキャスターも(男でも)ハイトーンなので、いささか鼻につく。
この作品ではハイトーンで喋るのは伊丹演ずるタクシー会社の副社長くらいで、確かに昔の映画なのだ。

大原麗子と健さんの絡みは、たった二場面しかなく、彼女が健さんの居酒屋にふらっと訪ねてくる時。そして、彼女を探しにススキノにきた健さんがようやく発見した時の二場面。お大原麗子としては共演した気がしないのではないか。

「駅」では、ちょっとだけ登場した、離婚した妻役の石田あゆみが「夜叉」では、しっかりとした妻の役だった。「駅」で県さんとしっかり絡んだ倍賞千恵子は、「幸せの黄色いハンカチ」で、健さんを待つ健気な妻役を演じていた。だから、大原麗子はこの次の作品くらいで、もっとしっかり絡んだ役をやるかと期待していたが、そもそも健さんが映画に出なくなってしまった。これが残念。

健さんのようなスタイルの役者は、もうすっかり映画に出てくることがなくなったようだ。そもそも対策と言われる映画が作られなくなって随分経つような気もする。今の日本映画を代表する役者というと、渡辺謙くらいになるのか。三谷幸喜の映画は基本的にコメディーだし、ヒットメーカー不在の日本映画で、大俳優が生まれる余地も少ないのかもしれないななどと、健さん映画を見ると思い知らされるのだ。