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高知路面電車の旅で

高知市内を通る路面電車は市内を東西に伸びている。高知市中心部であるはりまや橋電停からは終点までほぼ1時間かかる。その路面電車つかってちいさな旅をしてみた。路面電車は自動車と並走するので時速は30kmまでに制限されているらしく、鉄道旅をは思えないほど(体感的に)実にのんびりと走る。
そんな路面電車の長距離移動が好きなので、あちこちで時間があるたびに終点までの旅をしている。函館、広島、熊本などは全線制覇した街だ。岡山と鹿児島、長崎はまだ半分しか乗っていない。富山は残念ながら未乗車だ。大阪の阪堺電車は半分乗った。東京に唯一残る路面電車はもちろん完全制覇済みだ。
今回の旅で高知も残す未乗車区間は僅かで、はりまや屋橋から桟橋までの区間だ。これは次回でなんとかしよう。

土佐電鉄の東側終点は御免町になる。ここからは土佐くろしお鉄道(元JR)に乗り換えれば高知県をもうちょっと東へ向かうことができる。ただ、乗り換え便は1時間に一本くらいで、それも接続があまり良くない。この先まで鉄道旅をしたければ、高知駅からJR直通で行くほうが便利だ。

しかし、いつもこの駅の名を見てふふっとわらってしまう。ごめんなさい駅と脳内で勝手に読み替えてしまうからだ。優しい名前だなと思う。ちなみにこの先の駅が「なはり」で、路線名をごめんなはり線というのだ。これもなんと優しい響きではないか。
ちなみにごめんなはり線はローカル線では珍しい高架線で車窓の景色が抜群に良いことで有名だ。だいたい春先の鉄道旅番組では、常連路線と言って良い「フォトジェニック路線」なのだ。次の機会にはごめんなはり線完全制覇を果たしたいものだ。

この日の高知は気温が30度を超え、体感的には夏だった。近くのコンビニに入ったら、なんとも目立つものがショーケースにあり衝動買いしてしまった。かき氷の袋詰めだった。このピンクの色が「おーい、あついだろう。こいつを食べてひんやりしようぜ」と語りかけてきた。
カウンターでスプーンをもらい袋のまま食べた。冷たくて、頭がキーンキーンとしたが、これぞ夏の食べ物だ。夏にはこれを全国的に売って欲しいものだ。個人的には、やはりメロン味とレモン味を追加してもらいたい。最近の流行りで言えばマンゴー味などが出現しそうだが、赤・黄・緑の三原色トリオが望ましいぞ。

路面電車の旅はこうしたローカル名物との出会いが最高だなあ。

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土産物 あれこれ

鳥取といえば安来節と思っていたら、なんと鳥取県ではなく島根県だった。いくら県境の町とはいえ大変失礼な思い込みだった。そのどじょうすくいを饅頭にした銘菓があり、これはなかなかデザイン的に優れたものだなあと感心した。駅のコンビニでも売っているから土産物限定ということではないのかもしれない。簡易包装の小ロット物も売られているので、現代の小口需要にも的確に対応している。
食べてみるとホッとする甘さの饅頭だった。やはり饅頭の甘すぎは良くないと思う。

こちらは鳥取の歌詞で間違いない「大風呂敷」で、中身は甲府の土産物筆頭格である桔梗信玄餅と酷似している。違いは、黒蜜と梨蜜だろう。見かけはほぼ同じだった。上手いので文句はないが、風呂敷包みの包装が、信玄餅の信玄袋もどきとダブって見える。

これはネーミングだけで飛びついた。浜田といえば魚の街というイメージがあったが、周瑜も有名だったのだな。醤油味のキャラメルは美味いに違いないと思ったが、やはり予想通りうまい物だった。
甘い醤油といえば九州と短絡的に思い込んでいたが、実は中国地方日本海側も甘い醤油を使っているらしい。不勉強だった。ただ、最初に甘い醤油に感動したのは広島で見つけた際仕込み醤油だったから、西国のあちこちで甘い醤油は一般的なのだろう。砂糖という高級食材をふんだんに利用できるのは、やはり経済的に繁栄していた西国の強さだろう。貧乏な東国は醤油すら普及が遅れていたし。東北地域の甘い物好きは、江戸後期以降に砂糖流通が整備された後で生まれた後発文化らしい。
アメリカ合衆国でも東部地区はとても甘くてとても塩辛い料理が多いのは、開拓初期の流通問題、つまり食品保存が原因らしい。ケンタッキー州で食べたハムはまさに塩蔵肉でおまけに発酵食品という拷問のような味わい(笑)だった。
それを思えば鳥取島根の食べ物、特に甘さ加減の優しさよ、ありがとうと感動しておりました。

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高知空港を楽しむ

知る人ぞ知る、高知の有名人、田中鮮魚店大将の等身大?パネルが高知空港の土産物店前に立っている。本人談によると、おそらく日本で一番鰹のタタキを焼いた男とのことだ。それは間違いないと思う。店に行き大将に会いに行ってもたいていは「裏で鰹焼いちょる」と言われる。わら焼きの煙に巻かれて黙々と鰹のタタキを作っていることが多い。
ミスタ・タタキ・オブ・コーチという称号を進呈しても良いのではないか。ただ、この立体パネルだけ見ると、カツオを両手に抱えた変なおっちゃんが立っているだけなので、せめて動物園の檻の前に必ずおかれている「動物の説明書き」程度は書いて欲しいものだ。たとえば、
「高知県中西部、中土佐町久礼に生息するヒト族土佐異種。鰹の捌きと炎熱加工に特化した技能を有し、カツオを捌かないとショック症状、禁断症状を起こす。製造したカツオ叩きはすでに10万本を超え世界記録(推定)を日々更新中」
くらいのことは書いてもらいたいものだ。
ちなみにこのおっちゃんの店のたたきは、航空券代を払ってもお釣りが来るくらいの満足度がある、高知の隠れ名所だ。(多分)

同じ高知空港にある食堂で販売されているかつおのユッケ丼は、これまた田中のおっちゃんの盟友が作っている。絶品の旨さだ。これを食べると、魚に対する認識が変わる。ただ、土佐のカツオ食い名人たちは、それでもカツオは生がうまいと言い張るに違いないが、うまい鰹ばかり食べているとそんな意固地なオヤジになってしまうらしい。
ただ、カツオ食い名人たちも裏ではこっそり「うまい、うまい」と言って食べているらしい。このユッケ丼を食べて初めて気がつくことだが、鰹とごま油がとても合う。これは驚天動地の発見だと思うのだが、我が尊敬する高知のカツオ料理名人は「うみゃーかー?」と言ってひそやかに微笑むだけなのだ。
高知空港で開催されている、高知県中土佐町のうまいものキャンペーンはもう直ぐ終わってしまうらしいが、一度は遊びに行ってよ、高知。一度は久礼でカツオを食べてよね、人生変わるから。
などと高知県観光特使として宣伝してしまいます。

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因幡・伯耆・出雲 旅の終わりに

鳥取市役所の前にある郵便ポスト 麒麟だそうだ

日本の古代史を初めて記した書物「日本書紀」は、大陸のスーパーステイトであるチャイナで始まった国家編纂「正史」に倣ったものだ。秦朝による大陸統一の後、次に成立した「漢」帝国の時代に始まった政治的慣習だ。前朝を滅ぼした帝国が自分の正統性を残すべく書く「正史」だから、常に滅びた王朝は悪様に描かれる。勝者が作る歴史書の典型だ。
それが悪いと言っているわけではなく、これこそまさに人類普遍の性質だろう。文化の東西を問わず、宗教の違いや人種の違いなどを超越して、常に人類は種として「前の支配者は悪である」と書き残している。これぞ普遍の真理だ。歴史に正義などない。勝者の宣伝であると言って間違いはない。
歴史書を書き換えたい、あるいは正しい歴史を教えたいと言う人たちがいるが、それぞまさに噴飯物だと思う。「正しい歴史」を書き残したければ、戦争には負けず、経済戦でも勝利し、時代のスーパーステートになるしかない。亡国の歴史は、いつも惨めで悪者の国にされる。あれほど頭の良い人たちが、それくらいわからないのかと思う。


ひょっとしたら不勉強で知らないだけで、どこかの国には「俺たちが滅ぼした国こそ人類の理想国家であり、それを滅ぼした俺たちはあまりに罪深く、人類の敵として断罪されるべきだ」と記された史書があるのかもしれない。ただ、そんな本が存在していたら、奇書、怪書、あるいは国家転覆を企む発禁本として焼かれていたに違いない。

「漢書」が書かれて数百年が経ったのち、「漢字」で書かれた「日本書」が作られた。当然ながら、当時の文明先進国である大陸王朝の文字を使い、その文法に従って書かれたもので、今の時代でいえば英語で書き記された「日本国憲法」みたいなイメージだろう。ともかく、自前の文字もなければ(古代の日本に独自の文字が存在したと言う人はいるようだが)歴史を記すモデルもなかったのだから、お手本通りに書くしかなかった。
それは、いつの時代でも文明後進国の宿命だし、日本だけがそうだったわけでもない。日本以外のアジア諸国でも漢字は多少のアレンジをしながら使われていた。大陸王朝に隣接する朝鮮半島、ベトナムは現代になり漢字を捨てたが、島国である日本では今ではしっかりと使われている。
戊辰戦争で新政府ができるまで、漢字(漢文)は唯一の正当的な文字だった。(それ以降は西洋文字が怒涛の如く流入しアルファベットによる支配になるのだが)
だから、「日本書紀」は漢字で書かれた漢文であり(それこそが当時のグローバルスタンダードで文明国の証だった)、自己賛美の塊になっているのも無理はない。
自分たちの王朝が、なんと「漢帝国」どころか「秦帝国」よりも建国されたのはが早いんだぞ、と書いてしまったほどだ。筆が滑ったと言い逃れはできない重大事だ。
大陸の支配者である帝国に知られたら、亡国の原因にもなりそうなまさに暴論だろう。おまけに、この書を記す前には大陸帝国に朝貢していたのだ。自分たちで、俺らはあんたの手下だかんね、だからいじめないでねと言っている。にもかかわらず、この「俺たちの方が先に国を作ったんだかんね、そこんとこよろしく」的な……………当時のヤマト政権権力者の頭の中をのぞいてみたい。多分、お花畑でいっぱいだったのだろう。

話が逸れてしまったが、日本書紀を書き記した古代王朝は、その統一過程で乱立する小国を一つずつ潰していった(はずだ)。中には、古代ヤマト朝に匹敵するほどの強国もあっただろう。その強国の支配者、あるいはその強国で祀られていた「国神」を、統一過程で吸収して自分たちの国作りの構成員として再登用した。神としての再定義をしたと言っても良い。
他民族が祀る「民族神」を自分たちの神の一族に加えて、何も違わなかったことにすると言う手口は、先進の古代文明国家でも行われたことだし、大ローマ帝国の神は古代ギリシア神族の名前を変えるだけで済ませたお手軽な借り物だった。それでも世界標準とされる高い文化を誇るローマ帝国にはなんの問題もなかった。
それと同じことが、古代日本で起きた。本来はヤマトを凌ぐ文明先進国家群、日本海沿岸諸国で起きたのは神の同化運動であったに違いない。大陸と直接交流できる日本海側諸国は、製鉄業を含む先進技術に長けていた。その技術が欲しいばかりに、古代ヤマト朝は当時の大国であった出雲・吉備津を制圧した。出雲国の筆頭神はいつの間にか高天原神族の子分扱いになった。おそらく出雲文化圏は広域に広がり、伯耆・因幡・但馬あたりまで広がっていだだろう。報ずる主神も同じだったにちがいない。


出雲大社の復元モデルを見るとその卓越した技術力がわかる。本来の出雲大社は現在の10階建ビルくらいの巨大建造物だったようだ。文明の劣る国は常に先進国を滅ぼし、その成果を安直に手に入れようとする。これも人類という種が持つ、根源的な戦争の原因だと思うのだが、古代日本でも文明大国出雲は軍事強国ヤマトに敗北し、日本書紀の中ではずいぶんな書かれようになってしまった。国譲り説話は、体のいい領土割譲だ。まさに実効支配の元、歴史が書き換えられると言う現実だ。
長々と書いているが、出雲を中心とした石見、伯耆、因幡と言った、現在の鳥取・島根両県に渡る日本海側は、決して裏日本などと呼ばれるはずもない先進諸国だったのだと言いたい。そして、軍事力には劣っていた。

この辺りを日本書紀、あるいは古事記から読み取るのは歴史学者に任せておけば良いかというと、そうでもない。学者は常に正しいことを唱えるわけではない。特に歴史に関しては、権力者に都合の良いことをしゃべくるだけなのだ。暴力的な権力者の前で真実を口にすることの難しさ、ガリレオ・ガリレイの苦悩を思えば明らかだ。


この国の歴史も、戊辰戦争後の明治政府を主導した革命家たちが、自分たちに都合の良いように歴史観を歪めたので(これが皇国史観というものだろう)、古代史に関してはヤマト朝廷賛美型の解釈をする学者が多かったようだ。これもまた世界共通の事象で、革命家はいつも暴力を見せつけ前政権時代の文化を破壊する。
というか文化を楽しむような教養ある者は、暴力的な革命家にはなれない。古今東西の暴力革命成功者を見ればわかる。おまけに暴力革命に失敗すると反乱者、大規模テロ主導者として処刑され歴史的には「極悪人」と認定され、同時に文化の破壊者、無教養な蛮人扱いされる。古代ヤマト朝は出雲で同じようなことを行ったはずだ。

因幡の白兎の話から始まる出雲・伯耆・石見・但馬の伝承はもう少し研究されても良いのではと思うのだが。出雲大社の奥には、出雲国が滅びる前の記録が残っていたりしないものだろうか。現地に行ったから感じる「ものの哀れ」感だ。

ちなみに出雲国の沖合にある隠岐島に流された天皇や公卿はいるが、八丈島に流されたものは反乱で負けた武家と犯罪者だ。この流刑地の違いも、西国東国異文化論として、あるいは出雲ヤマトの文化対立みたいな立ち位置で眺めてみると、ちょっと面白いかもしれない。

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コナンと鬼太郎

鳥取空港に来たのは初めてだった。なんとなく来たことがあるような気になっていたが、どうも勘違いで記憶違いだったようだ。実際に行ったことがあるのは米子鬼太郎空港だったのだ。アニメキャラの名前がついた空港だから米子と鳥取を混同していたようだ。
中国地方の空港は二つ名持ちが多い。いや中国地方に限らず、地方空港の多くが二つな持ちでイメージアップを図っているように見える。
この「鳥取砂丘コナン空港」は砂丘とコナンくんのWネームだからなおすごい。ちなみに県西部には「米子鬼太郎空港」がある。人口が60万人の鳥取県に二つも空港があるのだから人口比で考えれば、首都東京をはるかに凌ぐ。お隣の島根県には「出雲縁結び空港」があるが、ここも米子空港とは距離で50kmほどしかはなれていない。県境を挟んでるとは言え驚くべき近さだ。羽田空港と米軍横田基地(空港)みたいな関係だ。
島根県西部にも鳥取県と同じように、第二の空港「萩・石見空港」がある。ここは島根県に位置するが、空港名に萩がついているのがおかしい。つまり、萩は地名ではなく(笑)二つ名としての扱いなのだ。清水の次郎長のように地名がふたつな扱いになっている。「萩の石見」空港という感じだろうか。この場合の萩は地名ではなく花の名前なのかもしれない。まあ、山口県出身の政治家(誰とは言わないが)が空港誘致に活躍したことが明らかにわかる「お名前」だ。
広島県と山口県では広島空港、山口宇部空港が二つ名無し。新人の岩国錦帯橋空港は米軍基地との共用だが、東京に行くなら新幹線より飛行機が速いと言うのが売り物らしい。実際には観光路線として東京から人が来てほしいと言うことなのかもしれない。錦帯橋は飛行機で行っても見る価値がある名所だし。


瀬戸内海側では「岡山桃太郎空港」がある。瀬戸内海を挟んだ四国では、松山・高松が二つ名無し。松山坊ちゃん空港と書いてほしい気もする。高松は、一択で高松うどん空港だ。讃岐は空海の聖地だから、そちらを使うと言うことも考えれれるが、日本中の仏教関係者を敵にまわしそうな気もする。
「徳島阿波おどり空港」と「高知龍馬空港」はそれぞれ県を代表するビッグネームだ。どうやら、人口が少ない県ほど空港が二つ名持ちになるらしい。

さて、砂丘コナン空港だが空港ビル内はコナン展示館にもなっている。これをお目当てに来るファンも多いに違いないという精緻な作りだった。すごいぞ、鳥取県と言いたい。ネーミングライツの正しい使い方であり、まさに見習うべき見本だなあ。

空港ビル自体は最近改装したようで、施設もオシャレ感満載、地方空港にありがちな寂れた風情はかけらもない。都会的でハイセンスだ。羽田空港の猥雑さなどと比べると清々しささえ感じる。

滑走路の向こうは日本海が見える。海沿いの空港は展望デッキに上がって景色を楽しむのが良い。海岸線と水平線、その手前に人類が作った最大規模の乗り物が置かれている。自然と人工の対比としては素晴らしいものではないか、といつも思うのだ。
特に日本海側にある空港は西陽が指している時間、陽が落ちる直前あたりが美しい。天気の良い日には空港に遊びに行く人がいるそうだが、まさに、この砂丘コナン空港はそんな人のためにある空港だなあと思った次第。駅からバスで20分程度だから、鳥取の人にとっては使い勝手が良いだろうし。

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しめ縄であれこれ考えてみた

松江から車で30分ほどの山中に熊野大社がある。主神は素戔嗚(すさのお)なので、出雲王国併合後に出雲大社の押さえとして、国の反対側に置かれたのだろう。出雲大社はどちらかと言うと海寄りにある。熊野大社は瀬戸内海に通じる交易路の山側にある。政治的軍事的意図が見える立地だ。
ただ、ここまで車で来るとわかるが、なんとも辺鄙な場所だ。現代の都市住人から見れば山間僻地と言いたくなるほど山の中だが、古代から中世にかけては日本海と瀬戸内海をつなぐ要路であり便利な場所だったのだろう。

御神体が山とか岩である神社は、祭神がその土地固有の神様であることが多い。が、ここは征服者である素戔嗚とそのお妃が祀られている。地についた国神ではなく、支配地に引っ越してきた神様だから、場所はどこでも選べる。神域は比較的平ら名所だった。やはり神様にもすみやすい場所はあるものだ・

お参りをしようと思い気がついた。かかっているしめ縄が出雲大社と同じ様式だ。これは何を意味するのだろう。神社本殿の建築様式は時代や地方によって色々と変化する。
有力貴族の氏神などの場合は独自な様式が好まれるようだが、いわゆる国衙にある一宮は国家権力の出先機関であり、地方の独立性は存在を認めていないはずだ。国神が有力神であった場合は、それを弾圧するのではなく高天原神族に系統ごと取り込まれる(と言う体裁をとる)場合が多い。
だからこのしめ縄のように、出雲大社の様式を高天原神族系の神社で踏襲するのは、何か重大な理由があるのだろう。はっきり言って、素戔嗚が大国主に遠慮する理由がよくわからない。

記憶モードではいけないと写真を引っ張り出してみたが、やはりサイズの大小はあるがしめ縄の形は同じに見える。やはり出雲神族の支配地は特別扱いだったのだろうか。今では、それを気にする人もいないほど同化されている。
皇国史観でガチガチの「宗教者」たちは、この天照系高天原神族と出雲神族の関係をどう捉えているのだろうか。個人的には保守系(あるいは右翼と呼ばれる思想)が皇国史観にこだわる理由がよくわからない。そもそも皇国史観の元は江戸期に起きた、武家政権の正当性議論(簡単に言えば徳川家は武家政権始まりの源氏よりもすごーく偉いの理論付け)だったはずだ。もっと言えば、将軍家になれなかった水戸徳川の恨みつらみ成分も、それに多く含まれているように思う。
そんな理論を、徳川家政権を潰した明治政府が使うと言うのはなんともおかしみを感じる。まして明治政府が敗戦により全否定された現代で、どう言う理論になっているのだろうと思うが、宗教だから理論付も整理も要らんと言われればそれまでと納得する。

こちらは出雲大社の拝殿 しめ縄が同じ形式


まあ、そう言う宗教人と話をしてみたいとはけして思わないけれど。出雲国はあちこちに古代の証が残っている歴史ロマンの宝庫だ。凡庸な推理小説などを読むより、神社巡りをして歴史のあれやこれやを推理する方が余程面白いと思うのだがなあ。

食べ物レポート, 旅をする

厚切りの刺身がハードすぎる

鳥取島根を根城に展開している居酒屋チェーンがあり、その鳥取駅前にある支店にふらりと立ち寄ってみた。なんともにぎにぎしい店頭だが、元気な居酒屋はこんなかんじなのだ。
入り口前に教室で授業に使うようなホワイトボードが置いてある。そこには本日のおすすめがびっしりと書いてある。なぜにホワイトボード?と思ったが、夜になれば黒板は見ずらい。よく考えられている。

店内は相当賑やかだった。居酒屋で特有な従業員の掛け声、これが結構すごい。おまけに客の中には子供連れのグループもあり、子どもの声、親の声、おまけについてきた爺さん婆さんの声が入り乱れている。これを賑やかだというか、喧騒と捉えるか。
まあ、お通夜のように静かな居酒屋も気持ちが悪いので、これはこれでよしとしよう。
カウンター席であれば一人で静かに酒が飲める。と思っていたら、さすがに人気店であっという間にカウンターも満席になってしまった。カウンター席で大声を出す客はいないのが救いだ。
メニューを眺めていると、やはり見たことのないものが並んでいる。遠くに来たのだなという感じがする。サワラのたたきは珍しい。サワラは関西以西の食べ物だと思うのだが、瀬戸内海一帯から日本海北部まで食されている。昔はサワラが獲れるのは新潟あたりまでだったのが、今では秋田の北部まで広がっているようだし、この前に聞いたニュースでは函館沖でも釣れるらしい。
サワラが北上すればするほど、西国の食文化が広がる。人の移動だけではなく気候変動も食の進化を促す時代だ、やれやれ。ちなみにここ数年、北海道でもえりも岬沖で酒が取れなくなり、その代わりのようにブリが大漁らしい。北海道の人はあまり鰤を食べる習慣がないので、下魚扱いのようだ。

名物の刺し盛りを一人前にして頼んだ。普通は三人前くらいのギョッとするほど盛りの良い刺身盛り合わせが人気の店だそうだ。一人前の一皿を見て、その身の厚さに驚いた。お江戸のペラペラ系刺身を見慣れている身からすると、この厚みはぶつ切り級に見える。すごいぞと喜んで食べ始めた。すぐに、厚切りの欠点がわかってしまった。歯応えのある新鮮な刺身を分厚く切ったものは味が強く感じる。一切れ目はすごく良い、が二切れ、三切れと食べ進めると急速に満腹感が押し寄せてくる。
身の量というより、魚の味の濃さに圧倒される。生の魚はもうご馳走様という感覚になる。よく考えれば、この刺し盛り一皿(一人前)は、ステーキに匹敵するくらいの肉量なのだ。自分の体力(食の限界量)も減っているから、食べ始めの早い時期に体が正直に反応するらしい。普段はイカだのタコだのという軽量級で低カロリーの刺身を好んで食べているせいで、この豪速球なカンパチやらサワラやらというサカナサカナしたラインアップに、強烈な一撃をくらったということになる。

もう少しあれこれ頼んでみようと思っていたが、この日は刺身だけで早々とギブアップになってしまった。鳥取の刺し盛り、破壊力抜群でした。
それよりなにより、箸袋の一言が……………好きだなあ。また行きたくなる名店でありました。

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鳥取は意外と近い?

鳥取城跡は公園になっていた。全国に残るほとんどの城跡は公園になっている。地方自治体が管理し、市民の共有財産として開放すると必然的に公園になるしかない。それは理解できる。一部の都市では城跡が広大なこともあり、その中に県庁や博物館、高校や中学を置くこともある。
その点から見ると鳥取城は、実に簡素というか公園として上手に使われている。復元天守閣などを作り観光資源とする手もあるが、それも費用対効果を考えると簡単には踏み切れないだろう。
見物目的の復元城など全国各地にゴマンとある。最近の城郭見学者にインバウンドが急増しているを考えると、復元天守も現存天守もあまり大きな差はないだろうし。インバウンドによる観光立国など考えない方が良い。現在、観光業が抱える最大の問題は、客数減による需要低下ではなく、人手不足による供給現象だろう。この先、人口が増えることはかんがえられないので、人手不足はほぼ永遠に続く。ビジネスを考えるときに、重要な視点を失っているの観光業界の経営者だけではなく、それくらいしか外貨獲得手段がなくなった、ボンクラ政府のビジネス感のない官僚ではないか。
だとすると、鳥取城くらいの残し方が程よいバランスという気がする。

鳥取市だが、どうもお江戸界隈で暮らしていると西国、特に日本海側の地域はとてつもなく遠い気がしてしまう。新幹線が通っていないのが遠く感じる一番の理由だろうか。その分、空港の密度は高い。鳥取県には鳥取と米子に空港がある。島根県には米子空港のすぐ隣なのに出雲空港があり(軍事用の空港であれば同一拠点扱いされる近さだろう)石見空港がある。なぜか石見空港は隣県山口と共同利用されているのか、正式名称は萩・石見空港だ。島根県にあるのに萩が頭につく不思議さだ。
おそらく空港誘致の時に、山口選出議員が頑張ったのだろうなあ。山口・島根、どちらも首相を出した選挙区だし、保守政党も強いし、どんなことが起きたかは簡単に想像がつく。

では空港がたくさん必要なほど人流があるかというと、これはまた別の問題だ。この日本海側の地域を自動車で走ってみるとよくわかるのだが、建設途上の高速道路がまだらに開通していて、おまけに暫定的に無料区間が多い。おそらく全通まではまだ何十年?もかかるのだろうが、人口の多い場所周辺についてはかなり整備が終わっている。鳥取島根の幹線である国道9号は、それなりに整備が終わっているのでスムースな流れだった。そして何より山陰地方から山陽地方へ続く高速道路はほぼ整備が終わっている。中国山地の中は移動が思った以上に簡単だった。


たまたま見かけた道路標識で気がついたのだが、鳥取から姫路までは約100km、1時間強の移動距離でしかない。思っていたよりはるかに近いではないか。おやまあ、だった。
鳥取城といえば秀吉により攻め落とされた(包囲網による飢餓攻め)だったが、同じ頃に有名な備中高松城の水責めも行われていた。高松城は岡山市の外れにある。姫路に本拠を置いていた秀吉から見れば、鳥取も岡山も同じ程度の距離感だったのだと改めて気がついた。
1日の行軍スピードを20kmとして考えれば姫路鳥取間は5日の工程だし、30km行軍であれば3日半だ。時速4kmで8時間の移動と考えると、(軍事行動だし)十分可能だろう。例の有名な秀吉の大返しも、この距離感を理解した上で考えてみればそれなりに納得できる。(1日30kmは移動できるとして、それを5日も続けるのはちょっと無理そうだが)
現代では車移動で1時間-2時間が当時の軍事的行動半径だったのかと、姫路鳥取の距離標識を見て思った。となると、鳥取は意外と近いところなのだった。

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若桜鉄道というローカル私鉄の話

レトロな駅舎 JRでは取り外されている大きな時計がある

国鉄民営化の後に新生JR各社が唯一積極的に取り込んだこと、それが廃線だ。東海道新幹線を皮切りに全国に伸びる新幹線網を人質に取り、従来の路線、在来線は廃止、あるいは第三セクターへ移管して赤字を地域へ押し付けるという荒技だ。現在国外逃亡中の大手自動車会社・元経営者も腰を抜かすほどの剛腕ぶりだと言える。
なんとか営業改善を図り事業存続しようという私鉄、例えば銚子鉄道や大井鉄道のような知恵を使う経営はかけらもない。旧国鉄時代から変わらない官製思考であり、民営化しても頭の中は中央政府の官僚そのままだったと言いたい。
現代の言い換え経営用語に選択と主柱という言葉がある。これを悪用する経営者は多いが、旧国鉄、そしてJRの経営はこれを日本国中に知らしめた素晴らしく(悪い)実例だ。そもそも国鉄の経営が悪化したのは、敗戦後に失業者の受け入れ先として悪用したのが原因だろうと思う。カットできない人員が増えたら、事業拡大して従業員の飯の種を確保しなければならない。それを税金で賄おうとした、経営マインドがかけらもない悪手の結果だ。
そのボンクラ経営の後継がいまのJR各社なのだが、先代とは違う意味で悪しき経営センスを発揮している。東京都知事が駅ナカビジネスに血道を上げるJRに対して駅構内の税減免措置を止めるといったのは、輸送という本業ビジネスを蔑ろにすることへの苛立ちだったと思う。輸送業はそっちのけにして、品川駅をモデルにした駅ナカビジネスを拡大していった。要は輸送ではなく商業テナントの大谷になるという選択肢だ。この悪しき制度は燎原のようにJR各社に広がった。


廃線、移管はJR東日本だけではない。JR西日本管轄下でも、中国地方で瀬戸内と日本海を結ぶ山間路線が風前の灯だ。すでにJRの手を離れ第三セクターに移管されたところも多い。そのローカル私鉄の中でわざわざ乗りに行きたいと思わせる「すばらしい鉄道」も生まれている。列車に乗ることの目的が「移動」ではなく「乗るという体験」に変わる。乗車目的がエンタメに置き換えられ新ビジネスとして再生された。ビジネスモデルの再構築とはこういうことを言うのだ。
鳥取から伸びる若桜鉄道がそれを実現している。一度ぜひ乗ってみたいと思わせる仕掛けが満載だ(そう思うのは、鉄オタだけかもしれないが)
その象徴が終点駅の若桜駅だ。なんともフォトジェニックな美人駅なのだ。

さくらマークがよいなあ

ローカル私鉄の車両は、大都市圏で使われたものが中古で出回ることが多い。場所によっては、私鉄各社の電車が揃っていることもある。それがローカル私鉄の楽しみ方らしい。鉄オタ番組を見ていると学ぶことだ。
ところが、ローカルでも非電化路線の場合は、JRからの払い下げ車両になる。ディーゼル車両が貴重品らしいのだ。ディーゼルはあの独特の重低音が良いと言う鉄道ファン(乗り鉄)は多い。確かに首都圏などの大都市圏では、すでにディーゼルは初滅しか買った老兵だ。乗ってみるにはローカル線に行くしかない。
そして、各社ローカル私鉄の特徴は車体の塗装、カラーリングに現れる。ボディーカラーは当然だが、車体につけるキャラマークだったり、ロゴマークだったりがユニークで、車体を見る楽しみがある。
してるによっては、特別な専用塗装にはせず旧会社の車両をそのまま使っていることもある。そうなると、列車に乗るたびに見栄えも違えば客席も違ったりするのだが、それはそれでまた別の楽しみになる。鉄オタ、乗り鉄は、ともかくいろいろな蘊蓄を傾け(自分に対してだが)満足度を上げる平和な種族だ。(笑)

若狭鉄道の車両は落ち着いた赤だった。計画では姫路まで通じる中国地方東部の幹線になるはずだったが、工事は諸事情で中断され放置された。廃線の話が出ると、存続論が高まり、そのままJRから分離された典型的なローカル(おまけに過疎地)路線だ。今では観光路線として再生を図っている。

門司駅の改造駅舎に匹敵する「良さげ」なデザインだった

駅舎の中、切符販売窓口の横はおしゃれなカフェになっていた。駅舎の中に入れたてコーヒーの香りがしている。写真右側は待合室だが、これもゆったりとくつろげる空間だった。鳥取から若狭鉄道を使い終点まで乗り鉄旅をして、駅でコーヒーを楽しみ、また帰りは始発列車に乗り込み車窓を楽しむ。実に良いぞ。鉄道は移動のためだけに使うのではなく、乗る楽しみのために使う。そんな時代になったのだなと改めて思った。

若桜鉄道の路線図 リンクはこちら

https://kanko.town.wakasa.tottori.jp/wordpress/wp-content/themes/wakasakanko/img/wakatetsu_meguru_map.png?v1.0.1

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伯耆国一宮

鳥取県は東西で因幡国と伯耆国に分かれる。あまりこの辺りの国区分に詳しいわけではないが、国と国の境目は大体が大きな川や山で区切られている。関東で言えば、武蔵国と相模国、あるいは武蔵国と下総国の境は大きな川だ。
ところが因幡と伯耆の境目を探すと地図上ではなんとなく微妙な感じがある。日本海沿岸の西部地域は中国山地が海にまでせまっている。その海岸のあちこちにひらけた小さな平野が散在している。国府が置かれたのはそんな平野部だが、その平野部と平野部を山が遮っている格好だから、交通路は陸路と海路があった。海路の中心地と国府の場所が一致していないのもなかなか面白い。
鳥取県では鳥取市と倉吉市がそれぞれ平野部の中心地で、因幡、伯耆を管轄していた、という理解をしていたのだが、これも地図を見ただけはなく車を走らせて移動してみると、ちょっと違う感じになる。


一ノ宮の多くは山の中にある。それでも旧国府の近くにおかれるので、古代から中世にかけて日本各地の中心地は山の中だったのだとわかる。おそらく航海術の問題もあり、海岸に大都市、商業中心ができにくかったのだろう。商業の中心は港に注ぐ大河の上流、山の中に作られた。海陸の中間点であり交差点に国府や一ノ宮が置かれたということらしい。
ただ、現在の交通網や都市をみると、一ノ宮のある場所はすでに要所としては役目を終え、すっかり鄙びた場所になっている。伯耆国ではその感が一段と強く感じた。隣の国の出雲大社と比べると、やはり格段の差がある。

この神社は小高い山上にある。山のふもとには小ぶりな湖があり、おそらくはその湖のどこかに港がおかれ、古代・中世では海上輸送の重要ポイントだったのではないか。港を見下ろす要所に神社があるというのは、もっともな話だ。しかし、実際に神社まで向かう途中、この道を進んでいって本当に大丈夫かと言いたくなる細い道だった。
鳥居の前に到着すると小ぶりな駐車場があり、そこでようやく方向転換できる。そこまでは対向車が来たらすれ違うことさえ難しい細さなので、運転していても実に心細い。これまであちこちいった一ノ宮では、ここが一番細い道だった。つまり、だいぶ取り残されてしまった神社ということになる。これに匹敵するところと言えば伊勢志摩の古宮だろうか。あちらは車も通れず徒歩で山道30分だったなあ。

それでも流石に伯耆国一ノ宮だけあり、境内は広々として、かつすっきりとしている。行き届いた手入れをされているのだ。

この境内にお札の並べ方を説明する立札があった。これは初めてみたが、なるほど、こういう作法なのかとありがたく学ばせていただいた。しかし、これはなんのために置かれているのだろうと思う。伯耆国の民は神棚に複数のお札を並べる習慣があるのだろうか。
ちょっと勘繰ってみると、お伊勢様とは高天原神族である天照大神のことだろう。氏神様とはこの地域の神様のことで、おそらく高天原系神族として吸収されてしまった出雲神族の系統に違いない。左の崇敬する神様となれば、これは間違いなく古代出雲王朝の主神となる。
よくはわからないが、氏神様を大切にという意味には、侵略者の神と自分対tの神の併存を願う意志があるのではないか。あえて言えば、隠れキリシタン的に自国の神様を忘れないみたいなことだと思う。よくこれが、明治時代の過激な皇国史観と激突しないで生き延びたものだ。
勉強になった。