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海峡というよりも大河だった

関門海峡を船で渡りたいと思っていた。この海を舞台に商売を広げた石油商人の小説を飛んで以来だ。映画化もされたベストセラーで国産最大手石油会社の成長話だが、海上で石油を販売する移動船でのゲリラ商法から成り上がっていくストーリは実に面白いものだった。
その商売の場所を見てみたいということだったのだが。実際に海峡を下関側から眺めてみると、これは海というよりほぼほぼ川ではないかとおもった。対岸の九州はあまりに近い。
海峡を渡るフェリーはおよそ10分ほどで対岸に着くし、1時間に何往復もしているから、市内を走る路線バスよりよほど便が良い。

船着場から対岸を見れば、あまりに近い。最初は山口県側が海に迫り出して湾のようになっているのかと思った、海面も穏やかだから、どうも川としか見えない。対岸に渡る船を待っていたら、巌流島に行く観光船?が先に到着した。ただ、巌流島行きの船に乗り込む客の大半は大きなクーラーボックスを抱えている。どうやら魚釣りに行くらしい。外国人観光客がちらほらという感じで、ほとんど釣り船だった。

船で海上移動を楽しんでいたら、外には海峡を渡る大橋が見えた。この橋は何度か渡ったことがある。すばらしい景色が堪能できるはずだが、ほとんど記憶にない。瀬戸大橋もそうだが自分で運転していると、景色はあまり見えないせいだろう。

船が対岸について、改めて橋の姿を確認してみた。これはこれでフォトジェニックなものだが、どうも「川」にかかる橋という感覚が抜けない。
それでも、1000年近い昔には、この「大河」の上で、赤い旗と白い旗を掲げた軍団が手漕ぎ船で戦をしていたのだと思うと、それはそれで感慨深い。白い旗の軍団が勝ったのは、船の漕ぎ手を矢で射殺すという、当時は暗黙の了解で禁じられていた戦術をとったせいらしい。いつの世も常識を覆す革命児はいるものだ。ただ、その革命的な戦術も、戦に負けてしまえば世に例をみない蛮行で虐殺だと言われるのだが。戦は負けたものが金も名誉も歴史的評価も、全て失う大ギャンブルだと改めて思った。

この海峡は歴史ポイントというより観光名所だとは思うが、実際に来て見てみると実感できることがある。まさにこの地は、古代日本から大陸航路の出発地として栄えてたのが理解できる。

お勉強になったなあと感じた10分間の船旅だった。船の旅はいつでも楽しい。

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おそらくこれが最後の

厳島神社には何度かお参りに行った。行くたびに、ここは日本一美しい神社ではないかと思う。観光地として有名だが、歴史的には瀬戸内海交通の要所でもあり、軍事・戦略的見地からするとこの島の支配は極めて重要だった。
そこに霊験のある神社がおかれるのは当たり前といえば当たり前なのだが。

しばらく改修工事で周りを囲われていた大鳥居も今ではスッキリしている。たまたま潮目の時間が良かったので、綺麗な姿を見ることができた。

周りを海で囲まれた神社の廊下は実に絵になる。早朝だったのでまだ観光客も少なく、良い写真が撮れた。日中であれば、渋谷の雑踏かと思うくらい人がいるみたいだ。すれ違うのも大変な神社というのもなんだかなあと思うが、伊勢神宮や日光東照宮、浅草寺や善光寺などのスーパー人気スポットに引けを取らない人気ぶりだから仕方がない。

たまたま窓枠が写真のフレームみたいだなと思ったので、それっぽく撮った一枚だが、対岸(本土側)のビル群と鳥居の対比は、あまり良い絵柄にならない気もする。ただ、この辺りは海側に突出した箇所で、外国人観光客の集団撮影会場のようになっているところだから、ちょっと離れて写真を撮ろうとするとこんなアングルになるのだなあ。

帰り際に見つけた光景だが、どうもこの島の主人たちは、春の権力闘争トーナメントの時期になっているらしく、結構な音を立てながら頭突き合戦をしていた。これぞまさに文字通りの頭突きだなと感心した。ツノが生えてくるまでの時期にしかできそうもない荒技だった。
この神社に来るのは今回が最後になりそうな気がした。美しい光景に出会えたし、とても満足だった。なんだかこの先も、これが最後という感覚が増えていきそうな……………

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西国の果てで思うこと

下関には何度か仕事で来たことがある。ただほとんどが通過点での旅だった。まともに飯を食べたのは一回くらいだろうか。フグ屋の社長にご馳走になったのだが、なぜかフグより美味いよと、おこぜの薄造りを勧められた。確かにおこぜはうまかったのだが、なんとなくモヤモヤした気分になったのを覚えている。
その下関がJR西日本の終点かというと、どうやらもう少し先の小倉までのびているようだ。山陽線の目的地表示に駅名ではなく「九州方面」と書いてあるのがなんだか微笑ましい。
下関から小倉に行く電車はほぼ満員だった。大都市である北九州・小倉に遊びに行くのだろうか。中高生が埼玉県の街から東京へ繰り出すみたいなものかもしれない。下関は山口県というより、経済的には北九州市に飲み込まれている感じもする。

その本州西の果て、下関市にある神社は、大阪の住吉大社と同系列らしい。海神を祀る神社は日本に何ヶ所もあるが、福岡、下関、大阪と続く海神ルートは明らかに過去の海上交通の主導線を想起させる。
福岡線は壱岐・対馬とつながる大陸航路の入り口だったはずだし、ここ下関は瀬戸内ルートのスタート地点だ。大阪南部は奈良に通じる公式港だったのも間違いない。神様の縁起を辿るとなんとなく古代史が見えてくるものだ。天照系神族と地方神の関係も面白いが、瀬戸内海岸諸国と天照系神族の配置も面白い。天照系神族は征服と統治のバランスで配属先が決まったのだと思う。現代で言えば、支店を開設するたびに転勤させられる営業部長(優秀)みたいなものだろう。
天照系神族では乱暴者扱いされている素戔嗚は、実は敏腕な営業本部長で、配下に幾多の営業部長(地方担当)を従えていたのではないか。

そんなことを考えながらお参りしてみたのだが、この神社は実に真当というかオーソドックスな佇まいだった。

一宮としては少し小ぶりな気がする。おまけに海神様なのに山の上に立っているのが不思議だが、古代はこの辺りまで海岸線が近づいていたのかもしれない。

本州の西の果ては、そのまま九州への入り口になる。古代から人の行き来は盛んだったはずだが、関門海峡から九州サイドを覗いてみるとあまりに近い。感覚的には利根川の両岸に広がる街みたいな感じすらする。
古代から中世にかけて海運が主流であった社会・時代に、この海峡は文化的な境界としてはなんの意味もなかったのだろうなあ。そう思うくらいの幅しかない。下関と北九州では使う言葉も同じような気がするのだが。違うのだろうか。よくわからないまま、川のような海峡を渡ってみた。

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近代都市と城郭と………

小倉城は九州における幕府の防衛拠点の一つだった。当時の主力高速移動路、瀬戸内海ルートを使用して移動する場合、門司下関と渡るルートと陸路で日田を抜け大分あたりから渡るルートがあったはずだが、陸路防衛のため日田は幕府直轄地になっていた。そのため交易地として日田は栄えたていた。現在の鉄道、高層道路網と当時の主要交通とはかなり異なっていたのがよくわかる。古代、中世でも港のあるところだけが栄えたわけではない。
それにしても北九州市、小倉は当時から大きなターミナル地域だったはずだ。今でも人が集まっている。小倉駅を降りて思ったのが、この旅では一番の人出ということだった。歩くと誰かとぶつかりそうになるくらいの混雑度だ。

駅から地下鉄がつながっているのはよくある都市の光景だが、駅ビルの真ん中からモノレールの線路が伸びているのは、なんとも言えない。かなり異質な風景であり近未来的な絵柄だなと思う。お江戸にある羽田空港行きのモノレールと比べても、こちらが数段立派そうだ。その近代鉄道風景を見ながら15分ほど歩くと、全く違う景色にであう。これが歴史ある大都市というものだろう。

今では市役所が置かれているあたりには城が築かれていた。というか、城跡に行政の建物が間借りしているという方が正しい。全国あちこちで、県庁は城跡や城のお堀脇にあることが多い。ここもその例に違いない。
大手門付近に人の背丈より高い巨石を置くのは戦国末以降に建てられた近代城郭の特徴だ。どうだ俺の城は、こんな立派な石を運んできたんだぞ、すごいだろう、と威張るためのものらしい。威張りンボ・ナンバー1は間違いなく江戸城で、ナンバー2が大阪城だろうか。重機もない時代に、梃子と縄と滑車でこんな石を積み上げるのだから、すごいものだと感心する。

今ではすっかり庭園風景に変化している城内も、よく見れば戦闘目的で作られたことがわかる。ちなみに石段の高さはわざと不揃いにして上りにくくするという工夫をすることもあるようだが、この城の石段は整然としていて上りやすい。おそらく後世に修正されたものだろう。

この城も一度棄却された城を再現したようだ。この高さの石積みはなかなか見ない。堀の幅を合わせると難攻不落の堅城だったのだろうが。今ではインバウンド客が集まり自撮りをする名所らしい。
西に来るに従ってインバウンド客の姿も、言葉も。一気にアジアンなグループが増えていた。しかし、インバウンド客がなぜ城や神社を見に来るのだろう。日本人観光客もバチカンに行って教会を見たりするし、ベルサイユ宮殿にも大挙していく。日本人の大半は宗教観念も薄いし、軍事防衛に関する知識も驚くほど足りない。だから、観光で行く場所が宗教施設であれ防衛施設であれ、なんのためらいも感慨もないだろう。ただただ見るだけだから、日本人にとってそこには何の不思議もないのだが。パールハーバーに行って沈没した戦艦を観光するのですら躊躇いがない。自分たちが加害者側にあったことすら忘れているからできることだ。そんな日本人がインバウンド観光客のあれこれを言い募るのもおかしなことなのだが。


城はまあよしとしても、神社に来てお参りをしているらしいキリスト教やイスラーム教、つまり一神教の方々は何を思っているのだろうか。これが一番不思議だ。異教の神を悪し様にノノしるために来るとも思えない。となると、あれは一神教圏内における例外、つまり無宗教者なのだろうか。本当に不思議だ。

城を見に行くものたちも、その城にこもって戦っていた侍ウォーリアーが明治の武力革命を成し遂げた後、世界一好戦的な国と狂信的な軍になっていたことを理解しているのだろうか。そもそも日本民族が平和だったのは江戸期だけで、歴史的にそれ以外の時代はのべつまくなしで戦争、反乱、動乱、反革命が続いていた。世界で有数な暴力国家だった。たまたま島国で内輪揉めが中心だったが、それでも何度かは暴発的に半島や大陸に乗り出して戦争や略奪をしている。周辺国からすると厄介なならずもの国家だった。昭和の暴走では、何と一国で世界中を敵に回すという前代未聞の暴力国家だった。国家理性のかけらも無い状態でようやく敗戦を受け入れた。


昭和の後半と平成は、すっかり日本人もおとなしくなっていたが、歴史的に見て古代から近代を振り返ってみても、70年も経つと必ず暴力騒動を起こす民族でもある。平和に対する学習効果は驚くほど低い。そして、暴力革命や内乱は、いつでも経済的文化的に低水準の地域から始まるのも日本史の常識だろう。インバウンド客が押し寄せる歴史的建造物「城」が、いつ実用的な施設に変化するか。歴史は繰り返す、という言葉を城を見上げながら思い出していた。

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豊後一宮は火消しの神様

神社仏閣巡りをしていると、どうしてもカーナビに頼ることになる。昔は道路地図を見ながら目的地を探すので、周辺施設や道路の名称、ランドマークなどあれこれ予備情報も一緒に記憶していたものだ。だが、今では住所や名前で行き先が検索できてしまう。道筋など気にすることもないから、当たり前だがランドマークなど覚えない。
これがビジネス街とか住宅街であれば、あまり問題は起こさない。ところが、こと神社仏閣を目指すと、そもそも住所自体が山の一角全体を表していたりする。だから、目的地を設定すると、例えば神社の拝殿に設定されたりする。そうなると、車で行った時にはどこに駐車するのか問題が発生する。それ以上に、ナビが最短ルートで示す道筋は、神社裏手の山の中を抜けるとか、それも車がすれ違えないような細い道を設定してくることはしょっちゅうある。その度に、こいつ頭悪いぞと罵るハメになる。
今回も全くそうなった。広い道(国道)から参道に向けての道が選択されず、住宅地が広がる山の中を越えて、鳥居の前に案内された。鳥居前はクランク状になっている。おまけに車両幅ギリギリくらいの狭い橋を渡って右折の指示だった。そこの道幅も極めて狭い。狭い橋の上で切り返しをする羽目になった。やれやれ。

本神は天照神族のトップ級 というだけで融合政策、統治方針が想像できる

どうも豊後国には一ノ宮が多い。おそらく歴史的経緯なのだと思うが、宇佐神宮を報じていた地方一族と古代ヤマト朝の軋轢が主因だろう。この国の原住氏族はヤマト朝と張り合えるほど強かったのだ。おおそらく征服ではなく同化政策が取られていたのだと思う。天照神族との併存、同化、融和が見て取れる。
そういえば、山陽道の天照系神族と地方神が混在していた。瀬戸内海の東西は天照系神族が抑えているので、なんとなく争いの跡が見えてくる。

参道は短めだがこれは近くの山の周りに住宅地が広がってしまったせいのように見える。ご神域というか神社の周りはもう少し広い地域だったのではないか。

拝殿もシンプルな形で目立ったところもない。オーソドックスな神社と見て間違いなさそうだ。

ただ、「鎮国」の二文字は珍しいか。平城京以降、鎮護国家は仏教が主流になっていたはずで、外来宗教である仏教が隆盛を極めるにつれ、神社勢力は後退したはずだ。
時の権力者、それが公家であれ武家であれ、その一族で権力を継がないものは、ほとんどが寺に押し込まれた。現代風に言えば、天下り先が大きな寺院だった。
だから、仏教界が栄えたとも言える。平城京から平安京へ遷都した最大の理由は、奈良が寺で埋め尽くされてしまったせいだと聞いたことがある。天下り先が足りなくて、都全部の空き地を食い潰すまで、下請け寺院を増築しまくったということだ。
その時代、つまり古代から中世にかけての移行期間から神社は外来勢力である仏教に負けないよう、寺と合体して生存を図ることになる。それが長い間続き、平安後期から鎌倉、室町、そして江戸期にいたり「寺も神社もみんな一緒」でありがたやになったのは実に日本的らしいという気もする。が、戊辰戦争後の成り上がり下級武士の作った明治政府は、その神と仏の混交を嫌う。自分たちの権威づけのために、神道を新しい「政のシンボル」に引き上げた。
まあ、いつの時代も宗教は政治の道具に使われやすい。そんな歴史的な流れの中で、各国の一ノ宮も仏閣、寺院と付かず離れずの関係を保っていたはずだが、明治期以降独立勢力になり、新しい信徒集団が形成された。(まあ、国の下請けに戻ったとも言えるか)経済的に自立できたというべきだろう。

消防団の方が集団でお参りに来ていた 流石火消しの神様だ

その自立の過程で、それぞれにお奉りされている祭神の得意技?も発達した。より広く知れ渡るようになった。火消しの神様だったり学問の神様だったり、現世利益と近しいほど参詣する人間が多くなったのは間違いない。お酒の神様、穀物の神様では五穀豊穣の神にアップグレードされたケースもある。本来、古代日本では盛んでなかった商売繁盛の神様が出現したことなど、外来神族と合体してまで発展を遂げた新種なのだと思う。

みたいなことを、この火消しの神様にお参りしながら考えていた。狛犬の由来も大陸西方から渡来してきたものだし、日本の古代宗教である八百万神信仰は、ある意味、神族の合体と融合の連続こそが宗旨みたいなもので、大陸系の神族や、それを信仰する民族の差別化、差異化とは無縁の宗教だった。ヒンドゥー教や古代中国の神仙思想から派生した道教など多種多様な神を封じる宗教もある。ただ、その世界観は絢爛豪華というか重層的な神界構築がなされている。が、日本の八百万の神々、おまけに高天原は実にゆるふわ的なメリハリのない世界だ。天界というと抱く厳格さや重厚さのイメージが湧かない。ハレとケで乗り切っていくゆるさが特徴だろう。


当然、神獣である狛犬も害なすもの以外にはおおらかな守り神だったはずだ。この火消しの神様を一体誰から守るのか、八百万の神の中に火つけの神様がいるとしたら、その一味から守るのだろうな。などと、あれこれ哲学的に考えてしまいました。ナビのせいで道に迷ったせいでありますよ。

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城廻りのチートで妄想したこと

お城回りをしていると、城を見ることなくおしまいになることがある。すでに廃城になって久しく痕跡すらうっすらとしているという仕方のない場合もあるが、現在は発掘整備中で立ち入れないとか、山の上に石垣だけ残っているが登山道が山崩れを起こしているとか、様々な理由がある。
そこで登城を諦め、山の上にあるお城の跡地あたりを山の下から眺めて、ああ、この辺に城があったのだなと思っておしまいというケースだ。ちなみに、登山道があっても片道1時間かかるみたいな難コースの場合、個人的に心が折れて諦めることもままある。
毛利家の本城があったところも、山の姿を見て諦めた。麓にある歴史博物館で、山城の造作や配置地図を見てますます諦めてしまった。ただ弁解するが、この城は山を丸々一つ使って尾根沿いに出城をいくつも配置するという重厚な山岳要塞で、おまけにすでに廃城になっている。一部は自然の中に戻っている。視察するにも高度な知識が必要な「超上級城オタク」向けの難度Gレベルだった。(言い訳です)

戦国期 西に異本の大雄であった毛利氏の鎧


山の麓にある博物館から山城跡全体を眺めると、よくもこれだけの城砦を作ったものだと感心する。当時は、城の周りの樹木が伐採されていて城の全容が見えたに違いない。城という建造物は、敵に攻めるのが嫌だなと思わせなければならない。難攻不落という感覚が城を見た瞬間に与えるようでなければ存在価値がないとも言える。だから、森の中に隠されたファンタジー世界の城みたいなものでは「城の異様」が見えないから存在する意味がない。
そもそも、戦国期にまでには西日本の山々がほぼ禿山になっていたはずで、古代から刈り尽くした森林資源は再生不能に近い状態だったはずだ。長く京都から遷都できなかったのは、中世朝廷が貧乏だったこともあるが、それ以上に首府造営をする為の建築資材・大木資源が西日本では枯渇していたせいだという。
だから、戦国の覇者、徳川家康は江戸に首府を移した。まだ東日本、東北の森林資源が残っていたからだ。
先の大戦後、日本は禿山になった全国の山々に必死で植林をした。それが昭和の後期には大きく育ち、今では日本の山は過剰なほどの樹木に覆われているが、これはこの国にとって1000年以上存在しなかった景色らしい。
間伐を含め山地の森林資源メンテナンスがたち遅れているからこそ、あふれんばかりに生い茂る緑の世界が当たり前だと勘違いしているのが現代日本人だ。その結果として正しい知識もないまま樹木の伐採をやたらと嫌うが(不勉強な、あるいは作為的にデマを流す環境保護主義者のせいで)それが森林の健全な新陳代謝を妨げていることに無神経すぎる。そもそも現代日本で自然林などほとんど存在していない。伐採しても運び出せないような山奥ですら、大戦後の人は植林していた。宮崎県と鹿児島県・熊本県の境あたりでも自然林など驚くほど少ない。(だから、僅かに残った自然林は保護されているのだが、大半の都市住人は自然林と人工林の区別がつかない)あの広大な北海道ですら、かなりの割合で自然林が人工林に置き換わっている。

山登りをサボりながらそんなことを考えていた。そういえば、関西に多数ある大規模古墳も建造された頃は木など生えていなかったのだったようだ。古代日本で古墳とは巨大な人工物、建造物であることに意味があり、そこに木が生えていたら自然にある里山小山と変わらない見栄えになる。そんなことをときの権力者達が許すはずがない。
その後、権力者の意識が変わり古墳の整備を怠っていたから、勝手に木が生えているだけなのに。権力者の威容を誇るものは、古墳(土の山)から、大伽藍・寺院(木造巨大建築物)に置き換わったせいだ。
宮内庁は古墳の整備を嫌がっているらしい。予算の少なさもあるのだろうが、数が多すぎて自分たちでは管理ができないということの方が大きな理由なのだと思う。国を歪める官僚主義はいつも怠慢という裏理由がある。それは官僚制の始まり、はるか古代から続いているのだ。森林の再生よりも強い保守的官僚思想(俺の仕事を増やすな)とは、まさにこの国の特質的な文化だろうに。

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毛利の栄華とは 西国の雄

西国の地は戊辰戦争の結果、江戸幕府の後継となる明治政府へ支配者集団を供給した。ただ、暴力革命で政権を取った中心は下級武士であり、当然のように成り上がり思想が強買った。それ故なのか、故地を大事に守ろうということはなかったようだ。反革命を恐れる明治政府官僚は、領地支配の象徴であった城郭を廃棄するよう命じた。戦国期終了後、江戸幕府の廃城政策も息生き延びた城も軒並み棄却された。
まあ、文化的素養の足りない暴力革命者は、世界中どこでも同じことを行なった。最近では中東で長く残っていた宗教遺跡を破壊したイスラームの新興勢力と明治政府の官僚は同質の狂気に蝕まれていたと言える。暴力で成り上がったものは、暴力の恐ろしさを理解しおびえるということだろう。
文化破壊政策はある意味人類の持つ基本的な愚かさなの現れだ。直立した猿として進化を始めた時代から変わることのない、知的生命体としてはあるまじき遺伝子的な欠陥だろう。
その破壊衝動の犠牲となった廃城の典型が岩国城だと思う。明治政府に多数の高官を送り込んだ、凶暴なる革命軍の主体であった長州軍にとっては、この城は藩祖一族の守った重要な城であったはずなのだ。が、あっりと捨て去った。
自分たちの故地を捨て、一斉にお江戸へ、新都市東京へ集団移転していった薄情者たちの仕業だと、再建された城を見て感嘆した。長州軍の暴走癖は帝国陸軍に組み込まれ、そのまま昭和の大戦にまで一直線に突き進む。

西南戦争で陸軍の主導権を失った薩摩集団は海軍を支配するようになった。昭和の大戦は結局のところ、薩摩対長州の内戦が陸海軍の対立に姿を変え、国全体を巻き込み暴走を続けただけのことだったのかもしれない。

城の中は博物館のようになっているが、目立つのは刀剣の展示だった。勘繰ってみれば、故地を捨ててお江戸に行った人間達は、廃刀令を出して反革命精力の武装解除を目指した。だから、権力者に近い勢力では刀が蔵の中に死蔵されていたと考えると、長州全域で刀がごっそりと残されていたというのもありそうな話だ。おそらく戊辰戦争の敗戦国、東北諸県では全部没収されたのだろうが。

ちなみに、太刀と刀は展示の仕方が違う。刃を上向けにするか下向けにするかの違い。太刀は腰から吊るした。刀は帯に挟み持ち歩いた。だから抜くときに刃の向きが正しくなるように、刃の向きが違うのだと聞いたことがある。
ついでに刀剣の話をすればだが、時代劇を見るとばさりばさりと悪者は切り倒される。が、本当は何人も切ると刃は曲がり、おまけに刀身についた脂肪分で切れ味は悪くなるようで、多人数相手の戦闘では変わりの刀を用意しなければならなかった。そうなると、業物と呼ばれる名刀も実戦では十分に威力を発揮できたのだろうか。
展示されていたものは全く刀剣素人の自分でも知っているほどの銘品だったから、余計そんなことを考えていた。

戦国時代の山城は、織田信長の岐阜城に代表されると思う。防衛拠点として難攻不落を感じさせることと支配者、権力者として民衆に力を誇示する(あんな高いところに立派なお城を建てるとは、うちの殿様はすごいぞ的な)にあったはずだ。
だから、この城も眼下に広がる支配地を見下ろして「よしよし、我が領地も平安であるぞ」などと殿様が喜んでいた……………はずはない。
殿様が山の上に住むとあまりに不便なので、山城は見せるだけ、政治を取るお館は山の麓に用意されている。まあ、それでも一年に何度かは山登りをしてこの景色を眺めていたことだろう。

西国では残っている城が多いので、あれこれ歴史の綾に思いを寄せることになる。東国の城はほとんどが廃城になり思いを馳せる余地もない。
戊辰戦争を振り返ると西国から進軍した軍団は、当時の江戸幕府が対抗できないほどの大軍ではなかった。おまけに江戸幕府開府以来、入念に作り上げてきた東海道縦深防御帯は、簡単に突破できるもはずがない。優れた戦略思想によって作り上げられていた。
それがあっさりと破綻したのは、最後の将軍が弱虫すぎたからだ。あの世で家康が歯噛みして悔しがっていたに違いない。逆に言えば、ボンクラな将軍がいたおかげで暴力革命は成立したのだとも言える。

よく晴れた寒空に再建されたお城はよく映える。人の世の愚かしさと、城の美しさは意外とシンクロしているのかもしれない。西国の城は、自分にとって哲学の場でもありますねえ。

食べ物レポート, 旅をする

A night in Hiroshima

移動の途中で広島に立ち寄った。夜はお好み焼きを食べようよ決めていたのだが、かの有名なお好み焼きビルですら、半分くらいのお店が夜営業をしていなかった。あるいは早仕舞いをするようだ。
開いている店でも半分くらいの席が外国人観光客に占拠されていたり、予約で入店お断りになっていたりする。今日はもう追加の客は入れないと言われたり、今から締めますと断られたりで、なんとも残念なことになった。
おそらく、街のあちこちにお好み焼き屋はあるのだろうが、それを探す気力も無くなってしまった。それでは、広島名物こいわしでも食べようと居酒屋を探したのだが、お目当ての店はなんと休日で、その次の店も休みだった。ついていない一夜だ。
そこで自分の眼力を信じて、どこかの店に飛び込みで入ろうとしていたら、一軒のチェーン居酒屋に気がついた。
チェーン店でも居酒屋では地元の食材を提供することは多い。これはひょっとすると、こいわしがあるかもしれないと期待して入ったのだが。結果は、アウトだった。うーん、期待のしすぎというべきだろう。

お江戸で軽く飲む居酒屋としてはよく使う店だった。良い店だと思うし、回転寿司チェーンにとっては良いコンセプトだろうと思う。が、ローカル対応は全くしていなかった。チェーン理論としては全店同一メニューが正しいのだが、個人的には残念ということだ。

この時期は、まだ春カツオには早いはずだがなぜかカツオ推しメニューで、それはそれで美味いのだがなんとも季節感が伴わない。確かに秋から冬にかけて獲れる脂の乗った戻りカツオはうまい。ただ、年も明けたこの時期に戻りカツオって??という素朴な疑問には全く答えてくれそうもない。本社の意向というやつだ。食べてみれば美味かったのでカツオ好きとしては文句ないけど。

なぜ広島でと言いたいが、一番喜んだのがボール型ポテトサラダだった。見た目は一回り小さいテニスボールくらいだ。周りにびっしりと青のりがついている。見た目は苔玉みたいだ。

従業員のお兄さんに言われるまま、スプーンでボールを割ってみた。中からゆで卵が出てきた。これは、すごいなあ。座布団一枚あげてくれ、という感じだった。ありきたりのポテトサラダがひと工夫でビジュアル的にグラマラスな商品に変身する。開発者、偉いぞ、と褒め称えよう。

普段はあまり頼むことのない天ぷらだが、この時は筍フェアーだというので頼んでみた。塩で食べるのがおすすめだったが、一緒についてきたバジルソースが抜群に天ぷら向きだった。これも開発者を賞賛するべき傑作だった。
地元のうまいものには出会えなかったが、お江戸的見栄えの良い食べ物や変わり味の食べ物に出会えたからよしとしよう。
食べ損ねたお好み焼きについては、仕方がないから銀座にある広島アンテナショップで敵討ちをすることに決めた。広島の仇を江戸で取ると…………

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橋を見に行った

錦帯橋は一度来たことがある。ただ、出張の途中でちょい見しただけで、滞在時間1分でしたみたいな感じだった。今回はしっかりみてみようと思ったのだが、なんと橋を渡るには入り口で入場料を払う仕組みになっていた。前回は車移動だったし、なんの下調べもしていなかったす、おまけにちょっと立ち見しただけなので知らなかった。あるいは、有料システムに変わったのは最近なのかもしれないが。
橋のほとりから川の流れを見てみた。穏やかな流れだが、川はそれなりの幅がある。橋がなければ船で渡るのも苦労しそうな川幅だ。冬の時期だから水量は少なめのはずだから、夏になれば河原がもっと狭くなっているに違いない。

橋を渡り始めると、大小のアーチ橋が続く。登りはちょっとしんどいくらいの勾配だった。川という自然美と橋のアーチという人工美のバランスが良いなと思う。浮世絵に描かれた景色は現代日本で失われて久しいが、それでもまだ自然と人工の調和が保たれている場所は多く残されている。そして、ここは江戸時代から続く調和美の老舗なのだ。

橋を渡りつつ下を見下ろすとわかるが、川床が石で敷き詰められている。なるほどなと感心した。自然の川では、土台を固定するためにそれなりの技術がいる。洪水になった時には橋の土台が流木などで破壊されたり、流されることもあるだろう。
川床を石積みでに整地した上に橋が建てられているから何百年も長持ちするのだな。現物を見て初めて分かった。

少し先を見れば波立っている箇所がある。あそこは堰になっているのだろう。何段階もの流速調整の仕掛けができているようだ。人工美には高い技術の裏付けがあるのだった。ここでふと気がついたのだが、今まで通り過ぎていた名所や旧跡にも、こんな隠された見どころや視点があったのではないか?
何だか人生でものすごく損をしてきたような嫌な予感がし始めた。これはいけない。もう考えないことにする。それでも、これから見るものには正しい目を向けていくことにしよう。名所を見てつまらんなどと一言で片付けることは二度としないようにしなければ。反省は大事だ。

歴史的人工美の後、いきなり現代日本のお下品さというか商魂のたくましさに遭遇した。テレビ番組の宣伝かと言いたくなる店頭ファサードだが、ソフトクリームの種類がとても多いらしい。基本的にソフトクリームは一台に2種のフレーバーを入れる機械が主流だ。何十種類もフレーバーを変えるということは、店内にずらっとアイスクリームマシンが並んでいるのか? などと食べることより、技術的興味の方が先に立つ。うむ、厨房の中を覗いてみたくなる。
ただ、この日はあまりに寒かった。ソフトクリームを凍えながら食べるというのは、自分の中にない発想だ。なので、試食は断念した。

もはや全国の観光名所には必ず配置されているご当地キャラは、ゆるキャラと合わせて観光名所の鉄板的存在だろう。地元のデザイナーやイラストレーターの活躍の場にもなっているようだし、これは素晴らしい現代芸術と考える。クールジャパンってこういうことではないでしょうか。と、政治屋の皆さんには一言申し上げたい。金の使い道を自分の頭で考えなさいよと。パーティー券売った金でキャラ育成の支援でもしてみたら、若い層の票がある丸かもしれないよ。

さて錦帯橋のお嬢さん?のポスターを発見したのだが、お名前が書いていない。ネットで調べてみた。命名は昨年秋のようで「美橋とわ」さんというそうだ。美しい橋が永遠(とわ)に続くようにという意味合いらしい。良いなだなあ。できればご当地アニメを制作して、ワンクール分くらいネット配信するというのはどうだろうか。今後の活躍に期待しましょう。

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高知 3景

高知駅改札口を入ると階段でアンパ◯マンチームがお出迎えしてくれる。ただ、この階段アートはおとなの視点だと、ちょっと高すぎて顔がしっかりと見えない。おそらく小学生以下の子供であれば、その身長からくる視点の高さがちょうどになるのではないか。ちょっと見上げる形でしっかりとキャラクターの顔が見えるのだろう。
ホームに上がるとテーマソングもかかっている。キャラクター・デコ列車は岡山発だが高知駅で停車している。なんとものどかな景色だ。
JRグループで四国と北海道は単独での生存が難しい状態になっている。稼ぎ頭の新幹線がないということもあるが、基本的にローカル線の客数が足りなすぎるということに尽きる。乗っている乗客は、地元民であれば交通弱者である高齢者と学生しかいない。となると外来者、観光客をジャンジャン乗せる仕組みが必要になる。子供向け列車はソロ観光客ではなくファミリー層を対象にするので、動員数の水増しが可能だ。まさに、アンパ◯マンは比較的小さい子供向けのキャラだし、うってつけの人気者だろう。

鉄道を廃線にしてバスに変えてみたところで、バス路線も維持できないほど地方の公共交通は弱っている。やはり観光客誘致が優先課題なのか。
東北では震災後に鉄道路線を改良してバスを走らせるようにしたBRTが新しい試みだが、これを喜んでいるのは「乗り鉄」くらいのものだろう。もう少し対象を広げることはできないか。いちばん効率良さそうなのは熱い(厚い)支持層がいるアニメキャラとのタイアップだが。完全自動化運転が当たり前の時代になると、鉄道路線は一種の高速道路のようになるので、鉄オタ、アニオタ向けに特化した再生が可能かもしれないなあとホームで考えていた。

高知名物田舎寿司は、作り手によりさまざまな変化があるようだ。いつも買うのは日曜市に出ているおばちゃんたちの店だが、スーパーなどの食品売り場ではほとんど見かけない。気になってイオン高知まで出かけてみたが、あのローカルネタ大好きイオンも、これには手を出していないようだ。トッピングに使われるミョウガとか筍がなかなか乙な味なのだが。酢飯にゆず果汁を使っていると、これまた爽やかな野菜寿司という感覚が強まる。
お江戸の寿司屋もお勉強に来てみれば良いのになあと思う。回転寿司チェーンの社長も食べてみれば新しいメニューが思い浮かぶかもしれない。自分の好みは薄焼き卵で巻いた巻物だ。

「土佐のおきゃく」開幕中にアーケード商店街に設置された畳とこたつ。日中はほぼ満席だったが、夜になると誰もいなくなった。おそらく飲むのをやめたわけではなく、飲み屋の営業開始でそちらに移動して行ったのだと思う。確かに、夜はこたつがあっても路上飲みは寒いからなあ。強者どもが夢の後、という寂弱感が漂っておりますねえ。