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もう一つの一宮 丹生都比売神社

和歌山から車で30分ほどの山の中にある丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)は、静かな佇まいの端正なお社だった。熊野・高野山を守る守護なのだそうだ。神仏習合時代の典型的な考え方で、仏閣を守る神社という構造は全国あちこちに存在する。明治政府の成り上がり者たちは、それを嫌い仏閣の廃棄、廃寺を断行した。ほぼほぼ宗教弾圧であり、イスラームのテロリストたちが仏教芸術を破壊したよりもタチが悪い。
基本的に明治政府の治民政策は、江戸期と比べてあまりの無能さに目を見張る。おそらく、明治政府の官僚、特に上位者たちの頭の中はお花畑と幻想しかなかったに違いない。戦国末期の豊臣政権並みの愚鈍さと傲慢さだと思う。だから、両者とも滅びたのだが。

神仏習合は古代から現代にも通じる、日本人的な「融合」好きが現れているようだ。そもそも古代ヤマト朝は九州から東に攻め込み、各地域の小国・大国を飲み込んで大きくなった。その侵略時には鷹揚というか策略的というか地域神も捨てることなく自陣の神話体系に取り込み続け、ついには八百万も神がいるまでになったのだから、日本人の融合好きは筋金入りで間違いない。一貫して政策的にも「ヤマト」対「地方」の対立を嫌ったことは間違いない。


日本人が信じていた信仰体系と砂漠の民が信ずる「ただ一つの絶対神」しか存在しない世界とは、そもそも根本的に違う。日本人は古代からゆるい世界が好きなのだ。明治以降、砂漠の民が源流の西洋文化に追いつき追い越せと頑張ってはみたが、たった70年で亡国し破綻した。その明治政府の愚行は、この神様の違いではないのかなと思う。
日本人にとって、絶対正義や全てを捧げ我のみを信ぜよという絶対神との契約は、どうも肌に合わないというか、峻別され過ぎたように感じたのではないか。理屈や論理ではなく、肌感覚での判断だとは思うが、その手の違和感はなかなか根深い。
絶対神を報じる宗教、そしてのその信者たちのもつ強い倫理観や価値観、正義感はおそらく大多数のゆるい日本人にとって、苦手なものなのだ。もっとゆるくてもいいんじゃない?と言いたいのが、日本人的気質であるように思う。
西洋世界は格好いいと憧れてみたものの、その根底にある「厳しい論理」は、明治の日本人でもついに理解できなかったのではないか。そして、「明治の反乱軍=革命軍」の後継者たちも、やはり絶対神との契約が精神の根底にある西洋的価値観、宗教感を理解できなかった。ただ、それを2度の大戦でかろうじて勝ちを収めたことで、俺たちも西洋社会の仲間入りを果たしたと錯覚したのだろう。
ただし、それは西洋社会、絶対神を信ずるもの達からすると、異文化の発展途上国が暴走したに過ぎない。目障りになれば叩き潰すべき対象でしかなかった。なぜなら、絶対神を信じず、科学と経済だけを掬い取ろうとする「背教社会」でしかない。


明治政府の劣化コピーでしかない昭和初期の政府は、西洋社会の背景思想を理解しないまま世界全部を相手に戦争をしてしまったし、おまけに完敗した。あれほどの負けっぷりは歴史的にみても稀有ではないかと思う。ローマに滅ぼされたカルタゴより遥かに状況は悪いと思う。
そもそも終戦条件を決めずに戦争を始めるのは、愚か者以外の何者でもない。昭和政府は明らかに政治的にみて欠陥品だった。ただ、欠陥政府の愚行は、現在の東欧戦乱を見れば簡単にわかるが、いつの時代でも起こることだ。たまたま昭和政府の負けっぷりが一際大きいだけで、その後米国、ソ連も地域戦で酷い代償を支払わされている。日本だけがおバカだとは言えないことも明らかだ。

世界史的には、戦に負けて影の形もなくなるほど消滅した国は多い。ローマに負けたカカルタゴは有名だが、ユーラシア大陸の東側でも、北方民族と漢民族が4000年近く争い続けている。その間の中華王朝はどれだけ滅亡したことか。
日本史で振り返れば、昭和の敗戦に匹敵するのは、織田信長の長島門徒集根切りくらいだろう。砂漠の民の後継者たちが抱く思想は、今でも日本人には理解できていない気もする。

境内は綺麗に掃き清められていた。暑い日だったので打ち水もされていた。全国の一宮の中でも、これだけ丁寧に守られているところは少ないような気がする。
特に、東日本の一宮はほとんどがかなり傷んでいる。旧官幣大社といえども、地域の信仰の中心としての存在が減っているのだ。信仰のあり方というより、現実的には地域の人口が減り過ぎているためおこる、経済的弱化のせいだろう。

拝殿にかかる紫の幕は、なんと寺院からの寄進だった。なんとも言い難い。神と仏の助け合いなのだが、これを明治政府は嫌っていたのか。なんとも了見が狭いことだ。

拝殿からは複数のお社がお参りできる。熊野の三大大社を含め奈良界隈の神社はたくさんの神が祀られていることが多いようだ。さすが、まほろばの時代から続く神様銀座なのだとちょっとおかしくなった。
神社を一つ作るのにも莫大な費用がかかるし、そもそも社の寿命は20年くらいで定期的な建て替えが必要とされた。中世期になり柱に基礎・礎石をしっかり施すようになるまでは、古代の建築は柱の根元が水で腐食したらしい。遷宮の原因は、建築工法にあったという、古代史とリビアだ。

この橋が現世、人の世界と神域を繋ぐ境目、みたいなことなのか


神社建立よりも維持継続の方が経済的には大変だ。一度お祭りした神様を追い出すことはできないし、御社も潰せない。だから、高層ビルならぬ複数神を集めて管理を合理化する、大規模神社が増えていく。古代から中世にかけてのトレンドだった。
宗教関連費用の低減を図る政策は、あおによしの奈良時代から始まったのではないか。天皇が代替わりするたびに、その子や兄弟が天下り先として寺を要求したのだから、寺の数は代が下るごとに際限なく増える。寺の合理化ができないと神社の統合をするしかない。みたいな国家予算のやりくりが想像できる。寺を建てるための予算増が、古来からの神様のお住まい統合でまかなわれる、というか皺寄せされたという、現代日本にもありがちな状況だったのだろう。
由緒ある神社に詣でて、古代人の欲望に想いを馳せる。なんともやるせない気になるが、境内の気配はただただ荘厳だった。

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