
JRの駅前が街の中心と思うのは、おそらく首都圏を含め東日本に住む都市住民の勘違い、思い込みかも知れない。明治中期の日本全国でおきた鉄道敷設ブームで、地方の中堅都市を結ぶ鉄道網は一気に広がった。その後、国策として鉄道の国営化が進み主要幹線はすべて国鉄路線となり、大都市近郊の私鉄はローカル線・通勤通学線として生き残った。
と。大雑把に鉄道の歴史を整理をしてみたが、そのモデルにあてはまるのはほぼ東国限定になる。いや、首都圏を除けば東国でもその理屈が成り立つところは少ないな。国鉄+私鉄が残っているのは、仙台・福島・弘前・宇都宮・高崎、そして例外的札幌くらいだろう。
その理由を考えてみた。明治の暴力革命で勝利を収めた「革命軍」、つまり明治新政府の主力は西国であり、西国の城下は温存されることが多かった。(勝ち組の特権だ)
鉄道駅は城下町・従来の繁華街を避け都市周辺部に敷設された。
はずなのだが、なぜか城下町に直通する路線を敷いた私鉄が多くあったのは、勝ち組西国の商人・資本が潤沢だったという特有の事情だろう。
それとは反して、東日本にある徳川傘下の地方では、城下町の温存など顧みる余地もなかった。あるいは無視された。廃藩置県で地方の小藩は消滅と合併の波に飲み込まれた。
そして合併で生き残った中核都市、比較的大身の藩のお城近くにジャンジャン鉄道を通した。その理由は、土地収用が簡単だっこと、つまり旧勢力が負けたため用地供出命令に文句を言える立場になかったということだと思っている。東国と西国で街の作りが大きく変わった理由は、当然だが鉄道を敷設する経済力と政治権力の差がもたらした結果だった。
西日本の大藩は勝ち組だから旧市街が温存され、国鉄と私鉄の二極が並立する街になった。東北を中心に負け組の街は国鉄一択だ。

人口の割には関西圏に有力私鉄が多いのは、一つに勝ち組の支援をしていた関西系商業集団の力があったため。二つ目には明治政府がお江戸を国際的な首府・首都として飾りつけるため、金もないし時間もないまま、江戸では乱暴な鉄道開発が行われたせいだと思う。関西の私鉄網の充実ぶりと比べ、首都圏の私鉄は田舎の貨物線という体裁が強く残っていた。
新橋・横浜間の土地収用は当時でも簡単な作業ではないと思うが、「負け組」の江戸勢力には明治政府に逆らう力はなかっただろう。中央線が果てしなく真っ直ぐなのは、多摩地区が畑だらけの農村だっただけではないと思う。徳川直率の多摩在住御家人は、鉄道敷設のため所領没収になっても、明治政府に逆らえるはずもなかった。(まあ、個人的推測です)
和歌山もそういう意味では明治政府に降った徳川一族の領地ではあるが、やはり近畿圏では要衝の地なので、国鉄と南海鉄道という二重構造になっている。大阪と京都、大阪と神戸と同様に、交通網の複線化が図られる重要地だったのだ。ちなみに奈良と和歌山を繋ぐ路線は、実に鄙びたローカル線ではあるが、それでも存在しているのがすごい。

などということを考えついたのは、JR駅からお城を目指して散歩をした後だった。晩飯の店を探し、どこかにある繁華街を目指していたのだが、とうとう発見できなかった。駅前の大通りを歩いて城の麓近くまできて、体力的に限界となった。歩いた距離は大したことがないのだが、夕方でも残っていた暑さと賑やかな場所が見つからない徒労感で心がへし折られてしまった。
どうやら川がJR駅と南海鉄道駅エリアの境目らしい。戻ってから地図を眺めていたら、あと5分も歩けば繁華街に辿り着けたのだ。川をわたったら繁華街があるというのは、徳島県と同じ構造だなとぼんやり思った。どうも、徳島という地域は四国の一部というより関西の一部ではないか。大阪湾というのは大陸にあるとてつもなく太い川と同じで、瀬戸内海というより瀬戸内川と言っても良いのだろう。となると、和歌山と徳島は川の対岸くらいの地理感覚なのではないか。

和泉国の海賊は徳島まで海域支配域にめざしていたようだし、地図で見るのとは違い、実際にその地で暮らす人たちの感覚では、徳島と和歌山の一体感みたいなものは、「国」としてのまとまりはずいぶん違ったのだろう。
夕方の街歩きは、体は疲れるが頭の体操には良い時間だったと、弁明するのでありました。
