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和歌山城 登城

和歌山城にはずっと行ってみたいと思っていた。徳川御三家の領地ということもある。徳川政権んお西側防御陣として考えると、大阪城、和歌山城、名古屋城のトライアングルで、西国外様大名への備えをしていたので、やはり和歌山城は見逃せない。
ちなみにお江戸防衛に関しては中山道・甲府ルートでは甲斐国を天領・直轄地にして八王子には将軍家直率の旗本を配置した。松本から八王子まで、かなり長い縦深防御としていた。越後からのルートは、前橋から川越城、奥羽からは宇都宮が防衛ラインとして固められている。太平洋沿いルートは水戸徳川が抑えている。徳川政権の地政学的な支配、軍の戦略配置は構造的で万全の備えだったはずなのだが。
それが戊辰戦争で敗北することになるのは実に不思議だ。想定通り、島津毛利などの西国大名が東進ルートで攻めてきた。それは、徳川政権からすれば基本的で想定通りの進行ルートだったはずだ。そもそも京都周辺での戦闘など大阪城と京都からの挟撃が前提のはずではないか。それに加えて、京都を焼き払う焦土作戦に出ることも幕府軍はできたはずだ。反乱軍はそれをやると大義名分を失うから決してできない。(長州はそれで一度亡国の危機まで追い込まれている)


備えは万全なのに、なぜ負けたか。答えは簡単ではないが、一つ二つ理由を挙げると、まず、大将である将軍が初戦の敗北で逃げた。それも決定的な決戦ではなく、戦争初期の小競り合いで逃げ出した。古来、大将が逃げたら戦争は負けと決まっている。
二点目は、東海道筋に配備した徳川陣営、それも親族を含めた家臣の裏切りだ。本来の想定では東海道を敵軍が進んでくる間に、次々と各所で徳川軍の反撃を受け、箱根付近で大決戦となるはずだった。それが、進軍されると戦いもせず降伏して、あるいは反乱軍に参陣してくる裏切り者続出となった。神君などとたてまつられた家康であれば、味方の裏切りにも対抗策を立てたかもしれないが、所詮滅びる政府にはそれほどの戦略眼も対応策もなかったということだろう。逃げちゃう大将だからなあ。そのおかげか明治政府では公爵様になる。逃げるが勝ちだったのかもしれない。水戸徳川出身だけに理念重視というお家柄だったのか。

まさに和歌山城は、徳川政権滅亡の生き証人みたいなものだと思っていた。大阪城は将軍が守るのを放棄して逃げた。和歌山城と名古屋城は想定された防衛拠点にすらならなかった。和歌山城の天守閣は復元されたものだが、これも戊辰戦争で落城したせいではない。石垣と堀を見れば相当な抗戦力を持った城砦だったことは簡単に理解できる。
天守閣は博物館のようになっているが、それなりに面白いものだった。不思議だったのは、このちょっと小ぶりな天守閣にも外国人観光客が押し寄せていることだ。どこから、何が目的で城を見にきているのだろうと本当に不思議な気分になる。日本に来たのはこれで10回目で見るべきとことは全て見たから、城でも見てみるか……………みたいなことなのだろうか。大阪城は間違いなく日本人より外国人が多かった。

和歌山城の凄さは復元された城郭ではなく、石垣にあると思う。この城壁の積み方は、他で見たことがない。細かく平らな石を積み上げるタイプで、何か意図があるはずなのだが不勉強で理解できていない。残念。

お城の一体は公園になっていて、お城の下に駐車場もある。便利なのだが、駐車場から天守閣に上がるまでの石段は百段を超える。感覚的には10階建てのビルの屋上に階段を使って上がるような感じだ。暑い日には登城するものではないと改めて思った。この日、一番感動したのは、天守閣前にある茶店で食べたかき氷だった。暑い日はかき氷だね。

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