
日本の古代史を初めて記した書物「日本書紀」は、大陸のスーパーステイトであるチャイナで始まった国家編纂「正史」に倣ったものだ。秦朝による大陸統一の後、次に成立した「漢」帝国の時代に始まった政治的慣習だ。前朝を滅ぼした帝国が自分の正統性を残すべく書く「正史」だから、常に滅びた王朝は悪様に描かれる。勝者が作る歴史書の典型だ。
それが悪いと言っているわけではなく、これこそまさに人類普遍の性質だろう。文化の東西を問わず、宗教の違いや人種の違いなどを超越して、常に人類は種として「前の支配者は悪である」と書き残している。これぞ普遍の真理だ。歴史に正義などない。勝者の宣伝であると言って間違いはない。
歴史書を書き換えたい、あるいは正しい歴史を教えたいと言う人たちがいるが、それぞまさに噴飯物だと思う。「正しい歴史」を書き残したければ、戦争には負けず、経済戦でも勝利し、時代のスーパーステートになるしかない。亡国の歴史は、いつも惨めで悪者の国にされる。あれほど頭の良い人たちが、それくらいわからないのかと思う。
ひょっとしたら不勉強で知らないだけで、どこかの国には「俺たちが滅ぼした国こそ人類の理想国家であり、それを滅ぼした俺たちはあまりに罪深く、人類の敵として断罪されるべきだ」と記された史書があるのかもしれない。ただ、そんな本が存在していたら、奇書、怪書、あるいは国家転覆を企む発禁本として焼かれていたに違いない。
「漢書」が書かれて数百年が経ったのち、「漢字」で書かれた「日本書」が作られた。当然ながら、当時の文明先進国である大陸王朝の文字を使い、その文法に従って書かれたもので、今の時代でいえば英語で書き記された「日本国憲法」みたいなイメージだろう。ともかく、自前の文字もなければ(古代の日本に独自の文字が存在したと言う人はいるようだが)歴史を記すモデルもなかったのだから、お手本通りに書くしかなかった。
それは、いつの時代でも文明後進国の宿命だし、日本だけがそうだったわけでもない。日本以外のアジア諸国でも漢字は多少のアレンジをしながら使われていた。大陸王朝に隣接する朝鮮半島、ベトナムは現代になり漢字を捨てたが、島国である日本では今ではしっかりと使われている。
戊辰戦争で新政府ができるまで、漢字(漢文)は唯一の正当的な文字だった。(それ以降は西洋文字が怒涛の如く流入しアルファベットによる支配になるのだが)
だから、「日本書紀」は漢字で書かれた漢文であり(それこそが当時のグローバルスタンダードで文明国の証だった)、自己賛美の塊になっているのも無理はない。
自分たちの王朝が、なんと「漢帝国」どころか「秦帝国」よりも建国されたのはが早いんだぞ、と書いてしまったほどだ。筆が滑ったと言い逃れはできない重大事だ。
大陸の支配者である帝国に知られたら、亡国の原因にもなりそうなまさに暴論だろう。おまけに、この書を記す前には大陸帝国に朝貢していたのだ。自分たちで、俺らはあんたの手下だかんね、だからいじめないでねと言っている。にもかかわらず、この「俺たちの方が先に国を作ったんだかんね、そこんとこよろしく」的な……………当時のヤマト政権権力者の頭の中をのぞいてみたい。多分、お花畑でいっぱいだったのだろう。
話が逸れてしまったが、日本書紀を書き記した古代王朝は、その統一過程で乱立する小国を一つずつ潰していった(はずだ)。中には、古代ヤマト朝に匹敵するほどの強国もあっただろう。その強国の支配者、あるいはその強国で祀られていた「国神」を、統一過程で吸収して自分たちの国作りの構成員として再登用した。神としての再定義をしたと言っても良い。
他民族が祀る「民族神」を自分たちの神の一族に加えて、何も違わなかったことにすると言う手口は、先進の古代文明国家でも行われたことだし、大ローマ帝国の神は古代ギリシア神族の名前を変えるだけで済ませたお手軽な借り物だった。それでも世界標準とされる高い文化を誇るローマ帝国にはなんの問題もなかった。
それと同じことが、古代日本で起きた。本来はヤマトを凌ぐ文明先進国家群、日本海沿岸諸国で起きたのは神の同化運動であったに違いない。大陸と直接交流できる日本海側諸国は、製鉄業を含む先進技術に長けていた。その技術が欲しいばかりに、古代ヤマト朝は当時の大国であった出雲・吉備津を制圧した。出雲国の筆頭神はいつの間にか高天原神族の子分扱いになった。おそらく出雲文化圏は広域に広がり、伯耆・因幡・但馬あたりまで広がっていだだろう。報ずる主神も同じだったにちがいない。
出雲大社の復元モデルを見るとその卓越した技術力がわかる。本来の出雲大社は現在の10階建ビルくらいの巨大建造物だったようだ。文明の劣る国は常に先進国を滅ぼし、その成果を安直に手に入れようとする。これも人類という種が持つ、根源的な戦争の原因だと思うのだが、古代日本でも文明大国出雲は軍事強国ヤマトに敗北し、日本書紀の中ではずいぶんな書かれようになってしまった。国譲り説話は、体のいい領土割譲だ。まさに実効支配の元、歴史が書き換えられると言う現実だ。
長々と書いているが、出雲を中心とした石見、伯耆、因幡と言った、現在の鳥取・島根両県に渡る日本海側は、決して裏日本などと呼ばれるはずもない先進諸国だったのだと言いたい。そして、軍事力には劣っていた。
この辺りを日本書紀、あるいは古事記から読み取るのは歴史学者に任せておけば良いかというと、そうでもない。学者は常に正しいことを唱えるわけではない。特に歴史に関しては、権力者に都合の良いことをしゃべくるだけなのだ。暴力的な権力者の前で真実を口にすることの難しさ、ガリレオ・ガリレイの苦悩を思えば明らかだ。
この国の歴史も、戊辰戦争後の明治政府を主導した革命家たちが、自分たちに都合の良いように歴史観を歪めたので(これが皇国史観というものだろう)、古代史に関してはヤマト朝廷賛美型の解釈をする学者が多かったようだ。これもまた世界共通の事象で、革命家はいつも暴力を見せつけ前政権時代の文化を破壊する。
というか文化を楽しむような教養ある者は、暴力的な革命家にはなれない。古今東西の暴力革命成功者を見ればわかる。おまけに暴力革命に失敗すると反乱者、大規模テロ主導者として処刑され歴史的には「極悪人」と認定され、同時に文化の破壊者、無教養な蛮人扱いされる。古代ヤマト朝は出雲で同じようなことを行ったはずだ。
因幡の白兎の話から始まる出雲・伯耆・石見・但馬の伝承はもう少し研究されても良いのではと思うのだが。出雲大社の奥には、出雲国が滅びる前の記録が残っていたりしないものだろうか。現地に行ったから感じる「ものの哀れ」感だ。
ちなみに出雲国の沖合にある隠岐島に流された天皇や公卿はいるが、八丈島に流されたものは反乱で負けた武家と犯罪者だ。この流刑地の違いも、西国東国異文化論として、あるいは出雲ヤマトの文化対立みたいな立ち位置で眺めてみると、ちょっと面白いかもしれない。