旅をする

しめ縄であれこれ考えてみた

松江から車で30分ほどの山中に熊野大社がある。主神は素戔嗚(すさのお)なので、出雲王国併合後に出雲大社の押さえとして、国の反対側に置かれたのだろう。出雲大社はどちらかと言うと海寄りにある。熊野大社は瀬戸内海に通じる交易路の山側にある。政治的軍事的意図が見える立地だ。
ただ、ここまで車で来るとわかるが、なんとも辺鄙な場所だ。現代の都市住人から見れば山間僻地と言いたくなるほど山の中だが、古代から中世にかけては日本海と瀬戸内海をつなぐ要路であり便利な場所だったのだろう。

御神体が山とか岩である神社は、祭神がその土地固有の神様であることが多い。が、ここは征服者である素戔嗚とそのお妃が祀られている。地についた国神ではなく、支配地に引っ越してきた神様だから、場所はどこでも選べる。神域は比較的平ら名所だった。やはり神様にもすみやすい場所はあるものだ・

お参りをしようと思い気がついた。かかっているしめ縄が出雲大社と同じ様式だ。これは何を意味するのだろう。神社本殿の建築様式は時代や地方によって色々と変化する。
有力貴族の氏神などの場合は独自な様式が好まれるようだが、いわゆる国衙にある一宮は国家権力の出先機関であり、地方の独立性は存在を認めていないはずだ。国神が有力神であった場合は、それを弾圧するのではなく高天原神族に系統ごと取り込まれる(と言う体裁をとる)場合が多い。
だからこのしめ縄のように、出雲大社の様式を高天原神族系の神社で踏襲するのは、何か重大な理由があるのだろう。はっきり言って、素戔嗚が大国主に遠慮する理由がよくわからない。

記憶モードではいけないと写真を引っ張り出してみたが、やはりサイズの大小はあるがしめ縄の形は同じに見える。やはり出雲神族の支配地は特別扱いだったのだろうか。今では、それを気にする人もいないほど同化されている。
皇国史観でガチガチの「宗教者」たちは、この天照系高天原神族と出雲神族の関係をどう捉えているのだろうか。個人的には保守系(あるいは右翼と呼ばれる思想)が皇国史観にこだわる理由がよくわからない。そもそも皇国史観の元は江戸期に起きた、武家政権の正当性議論(簡単に言えば徳川家は武家政権始まりの源氏よりもすごーく偉いの理論付け)だったはずだ。もっと言えば、将軍家になれなかった水戸徳川の恨みつらみ成分も、それに多く含まれているように思う。
そんな理論を、徳川家政権を潰した明治政府が使うと言うのはなんともおかしみを感じる。まして明治政府が敗戦により全否定された現代で、どう言う理論になっているのだろうと思うが、宗教だから理論付も整理も要らんと言われればそれまでと納得する。

こちらは出雲大社の拝殿 しめ縄が同じ形式


まあ、そう言う宗教人と話をしてみたいとはけして思わないけれど。出雲国はあちこちに古代の証が残っている歴史ロマンの宝庫だ。凡庸な推理小説などを読むより、神社巡りをして歴史のあれやこれやを推理する方が余程面白いと思うのだがなあ。

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