
因幡国一宮は鳥取市中央部から車で10分ほど離れた山の中にある。というより、古代日本ではこのあたりが因幡国の中心地であり、瀬戸内から中国山地を抜ける主要交易路の拠点だったはずだ。川を使った水運の拠点に、その国を治める国府と権威の象徴である一ノ宮が置かれた、というのが古代日本の行政構造であった理解している。
ただ、時代の流れとともに農地が拡大して、水運での利便性が良い場所が移動する。人の集まる場所が移ってしまう。ところが神社はお引越しをしないので(御神体が山だったり岩だったりすると、そもそも移動不可能だ)、一宮のあたりはひっそりとした場所になっていることが多い。日本海側の一宮配列を見ると今でも賑やかな場所に残っているのは、若狭国一ノ宮(敦賀)くらいではないか。越後から長門にかけて、ともかく一宮は山の中が多い。
因幡国一ノ宮と伯耆国一宮を比べると、隣国でありながらで賑わいというか周辺環境がだいぶ違う。鳥取市が近いだけ、因幡国の方が賑やかに見える。神社の佇まい自体は同じようなものだから、周りにどれだけ「人」「民家」が固まっているかということだ、現在では同じ県内にあるが、古代から中世にかけては色々と事情が異なっていたようだ。

この神社のご祭神は武内宿禰命で、ヤマト政権の東征、つまり統一戦争の中で派遣された軍事司令官だった。死後は神となり征服地の監督をするようにというお達しなのだろうか。
特に、出雲を中心とする日本海側諸国、諸部族の鎮圧制圧、そして支配権確立といった荒事の担当責任者は、死んでなお国のために尽くすという護国鎮守の神様になった。なんということでしょう、さすが神様になられるほどの素晴らしい司令官兼為政者だったのだ。
現代の「政治屋」には見習わせたいものだ。そう言えば因幡国の国会議員もこの国を率いようとした。(今でもその思いはあるのかもしれないが)できることであれば、この神様を見習って良い「政治家」を目指してほしいものだ。
隣県出身の元首相、そのまた隣県の元首相。どちらもステーツマンの矜持はあったのだろうか。ポリティシャンの気配が濃厚な方達だったが。

比較的小ぶりだが端正な御社だった。神社で古代の歴史に想いを馳せるのはいつものことだが、やはり最初期に古代ヤマト朝と熾烈に張り合っていただろう中国地方の神社では余計に考えることが多い。
そもそも、中国、「なかつくに」という言葉こそ、本国と侵攻地の中にあるという意味合いの名前ではないのだろうか。歴史ファンが好きな邪馬台国論争は横に置いても、この中国地方は、ヤマト朝の本拠地と最先端の侵略地の間にあったはずで、そうなると西にある方(つまり九州)が本拠地、今の関西から東海地方が最前線と考えられる。当然、九州北部は大陸と半島の強い影響下にあった。
古代のスーパーステートであった大陸王朝の興亡と、その王朝が滅亡するたびに発生したであろう旧国からの難民が押し寄せる半島国家は、古代東アジアでは影響の大きい国家軍だ。王朝が滅びれば(起これば)、玉突きでその影響を島国である古代ヤマトに及ぼしていたはずだ。帰化人と呼ばれる大陸、半島からの移住者(亡命者)がこの国に先進技術をもたらし、政治にも関与したはずだ。なかつくに、そして東の最前線まで伸びる兵站線とその補給はどうなっていたのかなど興味は尽きない。古代史は戦争の歴史でもあるからだ。
その時期には、正史にはかけないような「暗部」がヤマト朝成立前後にはたくさんあっただろう。それをあれこれと嗅ぎ回るのが、西国神社巡りの楽しみでもある。ただ、それはどう言い繕っても邪推でしかないし、個人的な趣味の範疇だ。批判に耐える学術研究はぜひ専門家にお願いしたい。敗戦から70年も経ったのだし、この国の成立期に関して考察すると、ぶつぶつ文句を言って絡んでくる諸先輩は、すでにみんなお墓の中だ。

武神様のお使いといえば、やはりこの金のおトリ様になるのだろうか。個人的には、これも当時の優秀なサポート役、参謀役が死後に武神の眷属として「おトリ様」になった(させられた?)気もするのだが。その方の名前が鳥っぽかったのかな、などとくだらないことも考えてしまう。
おわします神々には申し訳ないと思うが、神社とは歴史的な妄想を膨らませるのに最適な場所なのであります。