
出雲大社にお参りに来たのはこれで四度目のようだ。記憶がうっすらとしている。初めて行ったときは晴れていた。2度目と3度目は雨だったような……… 今回も雨模様のぐずついた天気だった。
車で行くと出雲大社の西側にある大駐車場に導かれる。ナビの設定が自動的に駐車場をゴールにしているらしい。そこに文句があるわけではないが、かの有名な大鳥居を見たければ、ちょいとナビの設定をいじる必要がある。

駐車場からの参詣道は土産物屋の並ぶ小路を抜けていく。そこに置かれている一枚の看板がなんとも好ましい。商売っ気はあまり感じられない。歓待の心が素直にでている。さすが、神様たちが集まる場所を守ってきた人たちだ。

よくテレビで見かける太いしめ縄がある拝殿でまずはお参りする。これが本殿と言われても疑う人はいないくらいの立派な建物だが、実は本殿は隣にある。
日本に数々ある壮厳な神社の中でも一際異彩を放つと言って良い。神社として別格、という言葉が脳裏をよぎる。
伊勢神宮と出雲大社の違いはうまく言えないのだが、歴史的に考えれば征服者と被征服者の神だから、本来違っていて当たり前だ。ただ、被征服者でありながら巨大なシンボル、出雲大社の存続を許されたあたりに古代ヤマト朝と出雲王国の力関係が見えてくる。

いつ見てもすごいものだなと思う巨大しめ縄だ。作るのも大変だろうが、吊るすのはもっと大変だ。昔は人力で作業をしたはずだが、今では重機のお世話になるのだろうか。

昔見たときは、しめ縄の中に硬貨がめり込んでいた。下から投げてしめ縄の中に埋もれると幸運になるみたいな話だったと思う。ゼニ投げは他の参拝客に迷惑な話だったから止められたのかもしれない。あるいはパワースポットとして、厳かに拝む場所と再認識されるようになったとか…………神様へのお参りの仕方も時代によって変わると言うことかもしれない。

本殿の前で出雲大社独自の参拝法で拝む。二礼四拍手一礼という他ではあまり見られないものだ。ただ、今では一般的な二礼二拍手一礼も確か明治の頃に定められたもので(国家統制みたいなものらしい)、それまでは全国どこでも独自の参拝形式はあったようだ。
明治新政府の国家神道と皇国史観のあれこれについては、そろそろ冷静な分析が可能な時期ではないかと思う。在位期間が最長となった総理大臣の影響下で、またゾロ、明治時代の歴史観を復興させようという勢力が増えていたが、歴史と宗教は別物であるべきだと思う。
過去を振り返り定義するのは、その時代の勝者であるから、歴史はいつも正しく記載されるわけではない。そもそも歴史の正しさとは何かという議論する残っている。歴史書の大多数は、勝利者の宣伝として都合の良いように書かれることが大半だろう。江戸期の政治を明治期の政府が批判したように、明治の政府のやり方も大戦に負けた後では批判の対象になる。戦後にに書かれた史書は当然ながら明治政府を弾劾して当たり前なのだ。それが、明治政府にも良いことがあったのだぞ、などという議論が出てくるのは良いことなのか、それとも「悪いことを良いことと言いくるめる修正主義」なのか。などという議論ができるのが、戦後の世界の良い点だろう。明治政府の批判をして、特別高等警察に捕まることもない。ただ、その批判が抑えられていたのは昭和初期の為政者が平成の手前まで生き残っていたせいだろう。半藤氏の著作のような自由に歴史を批判すること、それが守られているのは大事なことだと思う。
ヤマトに滅びされた?国の代表とも言える出雲王国のその後を参考に、そろそろ明治政府以降の日本をあれこれフラットに考えても良さそうだが。出雲大社の神域で、そんなことを考えた。

拝殿前に大きな赤丸が3個ある。これは出雲大社の紋章か何かかと思っていたら、なんと古代の本殿を支えた柱の実物大基礎跡らしい。かなり太い木を3本束ねたものが柱なのだから、どれだけ巨大の建造物だったのだろう。古代出雲大社の復元予想図を見ると、当時の出雲王国の技術力、経済力がよくわかる。
この復元された大社に匹敵する建物は、奈良平安の仏教時代には生まれていないのではないか。戦国末期に建造された安土城、大阪城(秀吉バージョン)、名古屋城や江戸城(家康シリーズ)まで、超巨大建造物を造営する経済力を持った政権は、この国に存在しなかったということになる。ヤマト朝の治世下で建造されて焼失した巨大建造物があったのかもしれないが、どうもかの時代は古墳、要するに土木工事に熱中していたらしい。

本殿は直接見ることはできないが、本殿を囲む塀越しに屋根を見ることはできる。この屋根部分が10階建てビルの最上階くらいにあると思えば、かつての大社本殿のイメージに近いようだ。いやいや、初めてお参りに来た昔の人はさぞびっくりしただろうなあ

正面の大鳥居をくぐり参道を抜けるルートとは別に、駐車場脇から入って行くルートに建てられている石柱に、現代の参拝法に合わせた柔軟な対応(入り口はこちらからでも良いのだようという心配り)が伺える。長く続く神社を支えるのはこうした参拝者への気配りも含めた運営システムのアップデートなのだ、と現代風に考えてしまった。
伝統を守ることと時代に合わせた進化こそ、政権が滅び権力者が変わっても継続する「体制」として学ぶべきことは多いのではないか。千数百年前に亡国した出雲が1000年以上にわたって出雲大社を存続させてきた。そのノウハウを学ばずに、百年もたたずに潰えた明治政府の体制に希望を求めても無理だとは思うけどね。