旅をする

国宝の城 文化の極み

日本に残る城は(正確には城跡は)数万とも言われる。廃城になった後、草木が茂り山に帰ったような場所が大半だ。そんな場所でも現地に行くと、堀の跡などが地形に残っていて、ありし日の姿を思い浮かべるというリアル+バーチャルな体験を同時に行うのが、城マニアというオタク界の一角を占める勢力の独自な楽しみだ。
その在りし日の姿を思い浮かべるには多少なりとも専門知識があった方がよい。最低知識として戦国前期から江戸時代初期にかけて、最も先頭的な時代に進化した築城術の理論だ。例えば石垣の石の積み方で、最初はそこいら辺に転がっている石をパス流のように組み合わせて石垣を作っていた。それが時代が降るにつれ、石を整形してより頑丈で、より攻めにくい形に変えていった。
自然の石は凸凹しているので、よじ登る時の手がかり足掛かりが豊富だ。それを整形して平面加工すると、よじ登ろうにも手がかりがない。そんな仕掛けがどんどんと進んでいったのが戦国末期の城で、完成系は戦国時代の学習が最大限に生かされた江戸城だろう。
そして、西国に多く残されている築城された当時そのままの城で、ダントツの美しさを誇るのが松江城天守だろう。勇壮さで言えば松山城だが、城としての景観として評価するのであれば、松江城を推したい。
これに匹敵するのは、長野県の松本城、そして姫路城くらいだ。これ以外の「大きな城」は、ほぼ全てが戦後に復元されたもので鉄筋コンクリートの耐火建築物だ。見栄えは良いが中身は別物よ、ということになる。ハリボテとは言わないが、城の外見をよそおった歴史オマージュとでもいうべきだろう。

松江城の美しさは、広い堀に隔たれた小高い丘の上に立っている城というフォトジェニックな構成にある。そもそも城の目的は、そこに立てこもり防衛戦を行うという純軍事的なものであったが、戦国後期以降は領地拡大で大規模経営に成功した地方の覇者が、領民や配下の武将に対して威圧的効果を持たせることが主眼になった。織田信長の岐阜城から安土城への引っ越しが、その転換を表す好例だろう。松江城も、その例に従って支配者の権威を知らしめるという目的が主だったようだ。

石垣に使用される石も、人の背丈を超えるような巨石を使うことで、「俺の殿様はこんな大きな石を運べるほど、力がある(人を動員できる)のだぞ」と威張ることができた。大阪城や江戸城では高さが3mをこえるような巨石がたくさん使われている。重機のない時代に人力だけで数tを超える巨石を運搬し加工するのだから、それはピラミッド建設みたいな大量動員工事だったのだろう。
ちなみに、大阪城は秀吉が作った巨大城は一度完全に埋められてしまい、その上に徳川家建造の大阪城が上乗せされたので、現在見る巨石も徳川家による大量動員建設だった。ただし、埋められた豊臣製大阪城の方がはるかに大きかったらしいが。

城を見にいっても、ついつい気を取られるのは石垣で、店主の中にはあまり興味がない。ただ、たまに内部に入るとほとんど垂直に立ち上がっている階段というより梯子がしんどい。登るのは良いが下りの時に足を滑らせたら酷い目にあうという恐怖心が、ついつい躊躇いになる。保存状態の良い城ほど中の移動は危ないのだ。暗いし……………。滑るし……………。

あいにくの曇りだったが、やはり日本有数のフォトジェニックな城だ。青空を背景にすればもっとバエルだろう。この美しい城に江戸期有数の茶人領主が住んでいたというのは(厳密には城の中に住んではいないはずだが)、なんとなく理解できる。
この街は現代日本では首都東京から離れた日本海沿岸の地方都市だが、古代から江戸期までは大貿易航路である北方航路を抑える主力都市だった。日本海沿岸に文化都市が多いのはその表れなのだ。京都という文化を消費するだけの街より、その伝播先で経済と文化を融合させた日本海諸都市が時代を率いていた。
戊辰戦争の後、東京という新興都市、成り上がり者の街を偏重する時代が始まったが、それはそろそろ終わりになっても良い気がする。松江からその動きが起きてこないかなあ。

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