
小倉城は九州における幕府の防衛拠点の一つだった。当時の主力高速移動路、瀬戸内海ルートを使用して移動する場合、門司下関と渡るルートと陸路で日田を抜け大分あたりから渡るルートがあったはずだが、陸路防衛のため日田は幕府直轄地になっていた。そのため交易地として日田は栄えたていた。現在の鉄道、高層道路網と当時の主要交通とはかなり異なっていたのがよくわかる。古代、中世でも港のあるところだけが栄えたわけではない。
それにしても北九州市、小倉は当時から大きなターミナル地域だったはずだ。今でも人が集まっている。小倉駅を降りて思ったのが、この旅では一番の人出ということだった。歩くと誰かとぶつかりそうになるくらいの混雑度だ。

駅から地下鉄がつながっているのはよくある都市の光景だが、駅ビルの真ん中からモノレールの線路が伸びているのは、なんとも言えない。かなり異質な風景であり近未来的な絵柄だなと思う。お江戸にある羽田空港行きのモノレールと比べても、こちらが数段立派そうだ。その近代鉄道風景を見ながら15分ほど歩くと、全く違う景色にであう。これが歴史ある大都市というものだろう。

今では市役所が置かれているあたりには城が築かれていた。というか、城跡に行政の建物が間借りしているという方が正しい。全国あちこちで、県庁は城跡や城のお堀脇にあることが多い。ここもその例に違いない。
大手門付近に人の背丈より高い巨石を置くのは戦国末以降に建てられた近代城郭の特徴だ。どうだ俺の城は、こんな立派な石を運んできたんだぞ、すごいだろう、と威張るためのものらしい。威張りンボ・ナンバー1は間違いなく江戸城で、ナンバー2が大阪城だろうか。重機もない時代に、梃子と縄と滑車でこんな石を積み上げるのだから、すごいものだと感心する。

今ではすっかり庭園風景に変化している城内も、よく見れば戦闘目的で作られたことがわかる。ちなみに石段の高さはわざと不揃いにして上りにくくするという工夫をすることもあるようだが、この城の石段は整然としていて上りやすい。おそらく後世に修正されたものだろう。

この城も一度棄却された城を再現したようだ。この高さの石積みはなかなか見ない。堀の幅を合わせると難攻不落の堅城だったのだろうが。今ではインバウンド客が集まり自撮りをする名所らしい。
西に来るに従ってインバウンド客の姿も、言葉も。一気にアジアンなグループが増えていた。しかし、インバウンド客がなぜ城や神社を見に来るのだろう。日本人観光客もバチカンに行って教会を見たりするし、ベルサイユ宮殿にも大挙していく。日本人の大半は宗教観念も薄いし、軍事防衛に関する知識も驚くほど足りない。だから、観光で行く場所が宗教施設であれ防衛施設であれ、なんのためらいも感慨もないだろう。ただただ見るだけだから、日本人にとってそこには何の不思議もないのだが。パールハーバーに行って沈没した戦艦を観光するのですら躊躇いがない。自分たちが加害者側にあったことすら忘れているからできることだ。そんな日本人がインバウンド観光客のあれこれを言い募るのもおかしなことなのだが。
城はまあよしとしても、神社に来てお参りをしているらしいキリスト教やイスラーム教、つまり一神教の方々は何を思っているのだろうか。これが一番不思議だ。異教の神を悪し様にノノしるために来るとも思えない。となると、あれは一神教圏内における例外、つまり無宗教者なのだろうか。本当に不思議だ。
城を見に行くものたちも、その城にこもって戦っていた侍ウォーリアーが明治の武力革命を成し遂げた後、世界一好戦的な国と狂信的な軍になっていたことを理解しているのだろうか。そもそも日本民族が平和だったのは江戸期だけで、歴史的にそれ以外の時代はのべつまくなしで戦争、反乱、動乱、反革命が続いていた。世界で有数な暴力国家だった。たまたま島国で内輪揉めが中心だったが、それでも何度かは暴発的に半島や大陸に乗り出して戦争や略奪をしている。周辺国からすると厄介なならずもの国家だった。昭和の暴走では、何と一国で世界中を敵に回すという前代未聞の暴力国家だった。国家理性のかけらも無い状態でようやく敗戦を受け入れた。
昭和の後半と平成は、すっかり日本人もおとなしくなっていたが、歴史的に見て古代から近代を振り返ってみても、70年も経つと必ず暴力騒動を起こす民族でもある。平和に対する学習効果は驚くほど低い。そして、暴力革命や内乱は、いつでも経済的文化的に低水準の地域から始まるのも日本史の常識だろう。インバウンド客が押し寄せる歴史的建造物「城」が、いつ実用的な施設に変化するか。歴史は繰り返す、という言葉を城を見上げながら思い出していた。