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毛利の栄華とは 西国の雄

西国の地は戊辰戦争の結果、江戸幕府の後継となる明治政府へ支配者集団を供給した。ただ、暴力革命で政権を取った中心は下級武士であり、当然のように成り上がり思想が強買った。それ故なのか、故地を大事に守ろうということはなかったようだ。反革命を恐れる明治政府官僚は、領地支配の象徴であった城郭を廃棄するよう命じた。戦国期終了後、江戸幕府の廃城政策も息生き延びた城も軒並み棄却された。
まあ、文化的素養の足りない暴力革命者は、世界中どこでも同じことを行なった。最近では中東で長く残っていた宗教遺跡を破壊したイスラームの新興勢力と明治政府の官僚は同質の狂気に蝕まれていたと言える。暴力で成り上がったものは、暴力の恐ろしさを理解しおびえるということだろう。
文化破壊政策はある意味人類の持つ基本的な愚かさなの現れだ。直立した猿として進化を始めた時代から変わることのない、知的生命体としてはあるまじき遺伝子的な欠陥だろう。
その破壊衝動の犠牲となった廃城の典型が岩国城だと思う。明治政府に多数の高官を送り込んだ、凶暴なる革命軍の主体であった長州軍にとっては、この城は藩祖一族の守った重要な城であったはずなのだ。が、あっりと捨て去った。
自分たちの故地を捨て、一斉にお江戸へ、新都市東京へ集団移転していった薄情者たちの仕業だと、再建された城を見て感嘆した。長州軍の暴走癖は帝国陸軍に組み込まれ、そのまま昭和の大戦にまで一直線に突き進む。

西南戦争で陸軍の主導権を失った薩摩集団は海軍を支配するようになった。昭和の大戦は結局のところ、薩摩対長州の内戦が陸海軍の対立に姿を変え、国全体を巻き込み暴走を続けただけのことだったのかもしれない。

城の中は博物館のようになっているが、目立つのは刀剣の展示だった。勘繰ってみれば、故地を捨ててお江戸に行った人間達は、廃刀令を出して反革命精力の武装解除を目指した。だから、権力者に近い勢力では刀が蔵の中に死蔵されていたと考えると、長州全域で刀がごっそりと残されていたというのもありそうな話だ。おそらく戊辰戦争の敗戦国、東北諸県では全部没収されたのだろうが。

ちなみに、太刀と刀は展示の仕方が違う。刃を上向けにするか下向けにするかの違い。太刀は腰から吊るした。刀は帯に挟み持ち歩いた。だから抜くときに刃の向きが正しくなるように、刃の向きが違うのだと聞いたことがある。
ついでに刀剣の話をすればだが、時代劇を見るとばさりばさりと悪者は切り倒される。が、本当は何人も切ると刃は曲がり、おまけに刀身についた脂肪分で切れ味は悪くなるようで、多人数相手の戦闘では変わりの刀を用意しなければならなかった。そうなると、業物と呼ばれる名刀も実戦では十分に威力を発揮できたのだろうか。
展示されていたものは全く刀剣素人の自分でも知っているほどの銘品だったから、余計そんなことを考えていた。

戦国時代の山城は、織田信長の岐阜城に代表されると思う。防衛拠点として難攻不落を感じさせることと支配者、権力者として民衆に力を誇示する(あんな高いところに立派なお城を建てるとは、うちの殿様はすごいぞ的な)にあったはずだ。
だから、この城も眼下に広がる支配地を見下ろして「よしよし、我が領地も平安であるぞ」などと殿様が喜んでいた……………はずはない。
殿様が山の上に住むとあまりに不便なので、山城は見せるだけ、政治を取るお館は山の麓に用意されている。まあ、それでも一年に何度かは山登りをしてこの景色を眺めていたことだろう。

西国では残っている城が多いので、あれこれ歴史の綾に思いを寄せることになる。東国の城はほとんどが廃城になり思いを馳せる余地もない。
戊辰戦争を振り返ると西国から進軍した軍団は、当時の江戸幕府が対抗できないほどの大軍ではなかった。おまけに江戸幕府開府以来、入念に作り上げてきた東海道縦深防御帯は、簡単に突破できるもはずがない。優れた戦略思想によって作り上げられていた。
それがあっさりと破綻したのは、最後の将軍が弱虫すぎたからだ。あの世で家康が歯噛みして悔しがっていたに違いない。逆に言えば、ボンクラな将軍がいたおかげで暴力革命は成立したのだとも言える。

よく晴れた寒空に再建されたお城はよく映える。人の世の愚かしさと、城の美しさは意外とシンクロしているのかもしれない。西国の城は、自分にとって哲学の場でもありますねえ。

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