
3月上旬に訪れた高知市内の繁華街で、高知伝統である皿鉢のデモンストレーションが行われていた。展示会というより、もっと圧を感じるデモンストレーション、食のデモだった。

たまに目にする刺身の舟盛りなど軽く超越している皿鉢料理だが、特にこのイベントに合わせて気合いの入りまくったおっちゃんたち(多分)が、鼻息荒く?作り上げた大作がドーンと並んでいた。いったい何時間かけて、これだけのものを作ったのかと思う。

確か、高知の皿鉢料理の基本は、一皿の上に全部乗せて、食事の始まりから終わりまでを完結させる。要は男も女も一緒に飲むため、料理の支度は事前に完了させるということだったと記憶している。おせち料理がお重に入らず大皿に盛り付けられるといえば良いのだろう。
だから、皿の上は色彩の爆発になる。大皿の上にこれでもかと料理を乗せるから、懐石料理などで感じる「隙間の美」など発揮できるはずもない。ただ、そこが良いのだ。これでもかと押し寄せる色彩の乱舞は暴力的であり魅了満タンだ。

だから、皿鉢の上に乗っている料理を一つずつ見て、ああだこうだ言っても仕方がない。それに、食べ始めればあっという間にこの形式美は崩れてしまう。存在自体が儚い料理とも言えるか。
一口食べただけで崩れる「美」は、食べる前にその存在を証明し終わっている。









陳列台の上に並ぶ数十の皿鉢料理は、伝統的な和物だけではなく洋風や中華風、オードブル的であり、アフタヌーンティー風まで、煌びやかなバリエーションが生まれていた。なんだか、高知人的なハイテンションで賑やかな感覚が溢れている。まさに眼福と言いたい美しいものだったが、見終えるころにはお腹がなっていた。目には優しく、お腹には厳しいイベントでありました。