
岡山市の西部に吉備津神社と吉備津彦神社が、ごくごく近くにある。社の名前が一文字違いなので間違えやすいのだが、吉備津彦神社は、もともと吉備国の一宮であった吉備津神社から分祠されたものだそうだ。吉備国が備前・備中・備後に三分割されたときに、吉備津彦神社は備前国一宮となった。元の吉備津神社は備中国一宮に落ち着いたようだ。
これも古代ヤマト朝が、強大だった敵国(吉備国)を分割統治した占領政策と考えると面白い。分割した国にヤマト固有の神を持ってこないで、占領国の神を継続して祀った。ただし、その神は国神ではなくヤマトの神なのだぞと偽った上で、改めて分祀したことになる。なかなか細やかな占領政策だろう。
占領後に二・三世代も経てば、祀っている神が自国固有の神だったことを覚えているものもいなくなる。昭和後半の日本も同じようなことになった。占領と支配に関しては、同じテクニックが1000年を超えた過去でも、ほぼ同じように使われていたということだ。支配者と社会の本質は今も昔もあまり変わらないらしい。

北部九州の「独立勢力」と言える神々も同じで、北部九州統合の過程でヤマトとの急激な同化政策を取らず、それぞれの氏族の神を国神として認めた上で、「天照」という大女王神を作り上げたのだろう。
現代史における民主主義国家と共産主義国家の死闘の経過、そして結果を見ると古代ヤマトとでも同じような風景が見えてくる。民主主義国家の拡大と共産国家の没落が、古代ヤマト朝の征服過程と奇妙にダブって見える。古代ヤマト朝の先進的な経済に飲み込まれた、遅れた国々という構図だ。
軍事的な恫喝と経済的な魅力を組み合わせた戦略で、最終的に思想統一を図る。その時の攻略因子は、経済的成功、おそらく稲作の生産性向上作だろう。理念は金に負けるというのは、人類の歴史が証明している。。
共産主義が唱えた、みんなで貧乏を我慢するという理念は、結局、俺だけでも金持ちになりたいという欲望に負けてしまうのだ。おまけに権力者だけが贅沢をする、そして残りの国民は全員貧乏人だという社会は王政よりなお悪い。
やはり、人というものはたかが1000年や2000年では変われないものらしい。古代ヤマト朝の西国統合は、出雲国と吉備国の二大強国を下したことで完成したようだ。だが、最終的に奈良盆地を手に入れ、西国を平定したときに決定的な要因となったのが濃尾平野の豪族であったらしい。
奈良盆地を挟んで東西に広がる諸勢力とのバランスをとる古代ヤマト朝は、建国当時に政治的綱渡を随分と強いられたはずだが、その名残は熱田神宮に見られると思う。伊勢神宮と海を隔てた東国侵攻への最大拠点が、熱田神宮だったはずで、熱田神宮の扱いが吉備津神社などとは別格であることからも窺える。この話はまた別の機会に。

西国最強国の一つであったはずの吉備国、そしてその主神を祀る吉備津神社を訪れても、いまではそのかけらも感じられない。平和な雰囲気だ。江戸時代に今の拝殿が作られたようだが、この建築様式は独特だ。なぜ吉備津神社だけが特異な建築様式であり、その兄弟ともいうべき吉備津彦神社とは異なっているのか、この辺りも少し研究してみたいものだ。