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吉備津神社で古代国家を思う

備中国一宮、吉備津神社は一度来たことがある。桃太郎伝説の絡みで、この地にいた有力氏族である「うら伝説」を聞いたからだ。うらとは温羅と書く。おそらく古代ヤマト朝による侵攻と吉備支配の過程で残された物語だろう。
大和国に王朝首府をおいた古代ヤマト朝が中国(西部戦線)北陸(北東部線線)丹波(北西戦線)東海道(東部戦線)の4方面戦線を同時に構築した時の西国侵攻主導者が吉備津彦だったというのだ。
個人的には、この話は盛りすぎだと思う。日本書紀の話は、基本的に針小棒大な作り話が多い。大陸の大国に倣い正式な歴史書を作ろうとした勢いのまま、筆が滑るというか虚飾まみれのホラに膨れ上がっている気配が濃厚だ。今風に言えば、盛りすぎというやつだ。
古代において街道すら整備されていない小国分立状態の時期に、4方面作戦が同時に行えるほど国力があるわけもなく、また人口を考えても兵員数には限りがあるだろう。仮に各方面の諸国家と大和の国力対比が10倍あったとしても、予備兵力を考えれば4方面作戦は無理だ。軍事の常識に古代も現代もない。兵量(人の数)と武力(兵器を含めた質)の掛け算で勝負は決まる。
だから、吉備国で古代ヤマトとの戦争が起こりヤマトが勝った時に、吉備王国の王族をヤマトの一族扱いにして支配者とした。それがヤマトから派遣された将軍と称される吉備津彦のあり姿ではないかと思う。
本来、征服者であれば子孫が支配を受け継ぐ(ヤマトの代官として)はずだが、吉備津彦に子はいなかったようだ。ヤマト朝としては吉備王国の支配者の血筋を消したかったのだろう。

独自な建築様式なのだそうだ

そんなことを考えるきっかけになったのが、吉備津神社の特異な建築様式だ。この独特フォルムは吉備津神社だけのものらしい。ただし、その造形は古代に確立したものではなく、中世に生まれたようなのだが。中世になり古代から続く禁忌が外れた、みたいな妄想をしてみたい。その時期は南北朝の紛争で天皇系統の正当性があれこれ取り沙汰された時期でもあるし……
出雲も統一ヤマト朝による被征服国だが、出雲大社には独自の様式が残されている。ヤマト朝の支配様式というか、大国の王族、神族は根絶やしにせずヤマトに同化した形で存続させたのだろう。
おそらく完全撲滅させると反乱が起き、それに対応できるほどの超絶した国力があったわけではないからだ。古代ヤマト朝は豪族の連合政権で大王も持ち回りみたいなものだったようだから、同化政策が現実的かつ主導力だったと思う。
吉備国や出雲国のような海上貿易を行う大国との関係は、征服というより緩い連邦からの統合みたいなものだったのではないか。

どちらにしても、古代ヤマト朝が精一杯に背伸びをして中華大国に見栄を張った結果が、日本書紀の盛りすぎ伝説になっていると思う。現実的には、案外周りの国にペコペコと頭を下げながら同盟国を増やしていった、勤勉で臆病で腰が低い国づくり過程だったのではないかと思う。
そもそも文書記録を輸入文字である漢字に頼っているのだから、それだけで国の立場というものがわかる。現代日本の歴史をアメリカ英語で記述して、それを国家としての正史とするみたいなものだろう。
当時でも存在していたはずの国粋主義者であれば、自国の歴史を他国語で記録するというのは、なんだかなあと思っただろう。現代であれば、Right Wing方面から集中砲火を浴びそうな暴挙なのに、今ではそれを正統歴史書として扱っている。やはりこの国は古代から変な国なのだ。
大陸国家が、特に春秋戦国から漢代に至る時代を、宗教面に視点を置いて、古代日本にどのような影響を与えたかは考察してみたいものだ。大陸のスーパーステートが東の小国である島国に与えら宗教的影響は、日本神話にどのような衝撃を与えたのだろう。それが日本の文化の源流、特に神道形成への影響は大きかったはずだ。道教の成立や仏教の伝来以前だから、古代中華帝国の宗教体系はかなり呪術的なものだったように記憶しているが。
それと同じ時期に滅ぼされた国である吉備国の成立は調べようもないだろうが。歴史は妄想からだなあ。

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