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5分で回る名城巡り

三原の駅に降りたのはこれが初めてだった。空港行きのバスを待つ時間調整のためなのだが、思いがけず長居をすることになった。駅前は全国に多くある地方都市と同じように、ちょっと寂しい雰囲気がある。街の中心は郊外のどこかにあるショッピングモール周辺に移ってしまったのだろう。
この街の名物はタコであるらしいことが駅前広場の看板でわかる。たこめしでも食べてみようか、と言うのがまず第一の感想だった。

駅の改札口を出ると、いきなり目につくのが三原城入り口の看板だ。ここは、おそらく全国でもこの城だけだと思うが、駅構内に城がある。正確に言えば、城の中に駅を作ったと言うことだ。明治期に鉄道の建設が続いた頃、普通は城や城下町から離れたところに駅が作られた。蒸気機関車による煙問題や火の粉による火災を懸念してのことだったらしい。
ところが、なぜか三原駅はお城の敷地、それも多分お堀を潰して建てられたようだ。おまけに、山陽本線に追加して新幹線まで乗り入れている。

駅構内(改札外)の入り口を上がると、目の前に石垣がでてくる。これが本丸の石壁だというから、城の端ではなく城の真ん前に駅を作ったと言うことだ。なんとも凄まじいことをしたものだ。

城壁と駅構築物の間には、ほんのわずかの隙間しか残されていない。新幹線に乗っていては気がつくこともないが、線路のちょっと先には天守台がある。おやまあ、と言う気分だ。明治政府のバカさ加減かと思ったが、昭和の日本政府はそれにバカを上乗せして新幹線まで通した。
ちなみに、駅の先には瀬戸内の海があるが、もともと三原城は海に面した海城だったそうで、つまり駅舎から先は埋立地だったらしい。城の北、山側が狭隘だったことから鉄道も道路も城を押しのけ作られたと言うことだ。

城の周りはお堀が巡らされているが、これも海とつながったもので、海の上に浮かぶように見えた勇壮な城だったようだ。今ではその名残しかない。

駅舎自体がお城の敷地内にあるので、お城博物館のようなものは作ることがなかったようだ。改札の中には’ホームからおりる階段脇)に、城の配置図がある。これは改札を出てから気がついた。改札を出る前にしっかりと見ておかなければいけなかったと思うのだが、それに気がつくのが遅すぎた。

もともとこの地を治めた小早川家は毛利家の一族だが、関ヶ原の時に徳川に寝返った因縁もある。戊辰戦争勃発時も西国の要所でありながら毛利側についたと言うこともなかったようで、明治政府にとっては厚遇する意味もなかったのだろう。
明治政府の狂気を後継した昭和前半の軍事国家日本、そしてその直系後継者である昭和民主日本、どちらも江戸時代の匂いがするものは嫌いだったようだ。文化的に劣るものたちは、先人の成果に嫉妬し憎悪し破壊する。万国共通の蛮族の論理だ。
明治という時代は知的蛮族が率いる、文化破壊と文明断絶の時代という視点で見る歴史家はいないものだろうか。司馬史観などと言って明治礼賛をするのは、昭和の時代とともに終わりにして欲しいものだが。三原城の残骸を見ながらそんなことを思っていた。

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