
大阪には数えきれないほど行っているが、よく考えると勤務先のオフィスとその周り、そして梅田と心斎橋周辺を歩き回った程度でしかない。通天閣は一度登ってみようとプライベート旅行を仕立てて観光客をしたことがある。が、大阪観光体験はそれくらいしかない。USJや大型水族館ですら仕事からみで行ったくらいだから、大阪観光とは縁がない人生だった。
だから、一度くらい大阪城に行ってもバチは当たるまいと、早起きして大阪城見物に行ってみた。地下鉄を乗り継ぎ大阪城最寄りの駅から徒歩で天守閣を目指すことにした。が、大阪城の広さを甘くみすぎていた。

どうも大阪城をおみそれしていたと反省したのが、お堀の幅の広さだ。このお堀は江戸城より幅広ではないか。堀沿いに大手門まで歩いていく間、ずっと考えてしまった。大阪城の歴史を振り返ると、織田信長対門徒の戦いまで時代が遡る。信長に屈服した一向宗が大坂(当時)から退去した後しばらくして、信長の後継者となった秀吉が築き上げた大城だ。だが、それも豊臣が徳川に敗れた後に徹底的に破壊され、その破壊後に再度盛土をして建てられたのが徳川大阪城になる。
その徳川版大阪城の天守閣が燃えてしまい再建されたのが現在ある大阪城(昭和版)だ。秀吉版の大阪城は、徳川版よりはるかに大きかったようで、それを再現すれば今の大阪城公園全体が、大城郭になるらしい。昭和版は予算の都合で限定サイズになったのだろうか。それでも残された石垣や堀を見ると、これが人力で建てられたものかと感嘆してしまう。

大手門が黒塗りになっていて、なんだかしょぼいなと思ったが、よくよく考えればこれは戦国期の最先端技術で、門を鉄張にしたものだ。どうもこれまで城廻で木製のもんばかり見てきたせいで、黒塗りの意味を間違えてしまった。下手な現代流デザインだと勘違いしてしまった。勉強不足はいかんなあ。

石積みされた巨石を見ると、どうもエジプトでピラミッドを作ったファラオたちを思い出してしまうのだが、この大阪城の石の大きさはピラミッドのそれに匹敵する。コロと縄を使ってどこから運んできたのか。
ちなみに江戸城の石垣にはこれより大きな石が使われていたから、間違いなく石の大きさによる威信が重要だったのだろう。千代田城(江戸城)は徳川本家、大阪城(建て直し版)は徳川出先だしなあ。

天守閣の周りは大賑わいだが、感覚的に半数は日本人、半数は外国人だった。ただ、近づいてみるとアジア系の顔立ちで異国語を喋る人間ばかりだったから、外国人比率はもっと高そうだ。ここは城、それも再現建築だから宗教的意味合いはない。身もふたもない言い方をすれば、舞浜にあるネズミの国の姫様の城となんら変わりのないエンタメ建築だ。(再建に努力した大阪市民には申し訳ない)
歴史的建造物と言えるのは石垣くらいだろう。まあ、それでもすごいものはすごいと単純に喜ぶべきだとも思う。エレベーターで上に上がれるのだが、待ち時間は20分を超えるらしく、長い行列ができていた。その行列からはほとんど日本語が聞こえてこない。インターナショナルな大阪だった。





強者どもが夢の跡、とはまさに大阪城のことだと思った。信長なき後に身内に焼き払われた安土城も不憫だと思ったが、戦に負けて土の中に埋められた跡地に再建された大阪城は、もっとすごい。徳川の怨念みたいなものも感じられる。
少なくとも、戦国期に攻城戦を戦い抜き、敗れ去り、廃城になった城は多いが、大阪序はその中でも最大級のものだ。現在でも残っている城は、戦国期を通じて負けなかった(攻城戦にならなかった)城が大半だ。あるいは戦国期が終わった後に築城されたものだ。となれば、現存の城郭で大阪城の存在は大きい。
そして徳川最後の将軍は、自分たちに反逆する西国軍をこの大阪城で迎え撃つこともなく江戸まで逃げ帰った。兵力数は徳川側が多かったにもかかわらずだ。滅亡する政権とはそういうものであるらしい。徳川政権始祖の忍耐強さ、粘り強さ、最後まで執着して望みを捨てない「強者」の倫理は、十五代もすると擦り切れてしまうのだなと、大阪城の堀を見ながら思い起こしていた。大阪城、3度目の活躍があれば歴史も変わっていたことだろうに。
大阪城は、歩き回ると本当に疲れるくらい広い。あまっくみすぎていた。もっと若い時に行っておけばよかったと心の底から後悔した。後悔先に立たず、大阪城の教訓であります。