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吉備国で 古代日本を思うこと

吉備国とは備前・備中・備後を合わせた瀬戸内中国地域の中心にあたる古代国家だ。今で言えば岡山から福山にかけたあたりに広がっている。古代日本でヤマト朝が日本征服事業を進める中で侵攻を受けた、中国地域でも大勢力の一つだったのが吉備国だろう。ここを落とさなければ瀬戸内海交通を抑えることはできない。古代ヤマト朝が押し進めた東征における、エポックメイキングなイベントが吉備制圧だったのではないか。
ただ、吉備の神さまは出雲の神様のように国から追い払われたりしていない。現地で生き延びることができた。国神として信仰が許されたのだから、吉備は武力制圧ではなく非戦のままで降伏による併合だったのかもしれない。
ヤマト朝建国ストーリーでは、いく柱もの神様が東国に追いやられている。大国主、素戔嗚、武甕槌大神などなどは、強大な抵抗勢力の表れだろう。ヤマト朝の大将軍が征服の成功により、ご褒美として神格化した(古代の勲章みたいなモノ)のではなく、亡国の王族が追放された先で神として存続したと考える方が辻褄が合う。
征服のご褒美組の筆頭は日本武尊(やまとたけるのみこと)だろうし、最強の亡国王は大国主だ、と思っている。

備後国一宮、吉備津神社は海からずいぶん離れたところにあった。どうもそれが腑に落ちない。吉備国は瀬戸内海海運を抑える海洋王国だったのではないか。その国の中心地である一宮が内陸部に引っ込むということは、海岸防衛戦に負けて陣地後退したということだろうか。
そう考えれば、川沿いに内陸に引きこもり、防御縦深を深くしたとも考えられる。ヤマト朝が西から攻略してきたとすれば、この地が第一次防衛線で、岡山あたりにある本拠を守るため、あえて拠点を内陸部に移動したと推測もできる。
神社にお参りに来て古代日本の戦時状況に思いを馳せるというのもずいぶんと物騒な話だが、吉備津彦さまであれば許してくれるだろう。

古代の神社、特に一ノ宮と言われる歴史の長い神社は、その立地が当時の、つまり古代ヤマト朝成立前の時期に、その地域の中心地だったはずだ。今では無くなっている地方王国でも政庁は一宮周辺にあったはずだ。だから、一宮周辺の地形は防衛拠点、要塞跡地と思って眺めるとなかなか興味深い。
そして、古代ヤマト朝最盛期に建立された各国の国分寺跡は、ヤマト朝が意図して作り上げた軍事拠点、武力拠点、行政支配拠点であるから、一宮と国分寺の位置を比べると、これまたあれやこれやの歴史妄想が湧き出す。
今ではすっかり平和の象徴で信仰の中心になっている一宮も、建立当時は政治的軍事的要所であったはずだが、今では戦も起きない。すっかり七五三を祝う平和な場所に変わっている。

神社の外装といえば「朱」と決まっているようだが、これも時代がだいぶ下った時からの「豪華色」らしい。この「朱」の塗料を作るのには膨大な資金がかかるそうだ。いわば金箔を張り巡らした金満建造物ができる前の時代に、一番金がかかる豪奢な建物が朱塗りだった。つまり、建主が権力者であることを示す意味があった。
だから、朱色に塗られた神社は征服者の証であるはずだとずっと思っていたのだが、吉備津神社が朱色とはちょっと意外だった。土着の神が征服民族の神に置き換えられた(昇格した)ということか。

しっかりと古代日本史や神社の様式をお勉強したわけではないので、勘違い、思い違いなのかもしれない。ただ、この地に住む人に2000年近く前から「我らが神様」と信仰されてきた吉備津彦(これも別名であったのが改名させられた可能性もあるが)さまにとっては、どうでも良いことなのかもしれない。

くどいようだが、この神社のある場所は、後背にある山を合わせて防衛拠点として見るとなかなか興味深い地形なのだ。瀬戸内海運国であったはずの吉備国で、神社を築くとしたら鹿島神宮的な海辺になるはずなのだ。それがなぜこんなな海から離れた山の中に………
歴史をネタにした妄想は楽しい。それはさておき、吉備津神社は清々しい神社でありました。

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