旅をする

おまけで城見学

今治の街は一度だけ通り過ぎたことがある。車でしまなみ海道を走り松山まで移動した時に所用があり郵便局に寄った。それだけの時間しか過ごしていない。
その街で、たまたま予定外の滞在をすることになった。ポカっと空いた時間を使ってお城を見に行くことにした。
今治城は海を防御帯に使った名城と言われている。戦国期の築城名人と言われた藤堂氏が作ったものだ。

城のお堀には海水が引かれている。堀の幅自体も通常見かけるものより幅広だった。お城を見るときには、いつも考えることだが、自分が攻めての親分だったらどこからどう攻め込むかだ。
今でも残っている城は、当然ながら戦国期に攻め滅ぼされなかった城ばかりなので、防衛思想は凡庸のものではない。散々、他国の城を攻め滅ぼしてきた勝ち残り組の戦国武将が、自分の攻城ノウハウを考慮した上で、自分が攻めても落とせない城として作り上げたはずだ。その難攻な城が現存している。だから、攻城ノウハウなどかけらもない自分が、その堅城を攻めようとしても攻略の糸口さえ見つからない。(素人考えなので当たり前だが)
戦国期前半、鉄砲が実用化されるまでは遠距離攻撃は「弓」と「矢」だった。普通の矢の有効射程距離は50mくらいだったらしい。矢自体はもっと遠くまで飛ばすことはできるが、殺傷能力が十分あるのは意外と短距離だったようだ。
だから堀を作ったとしてもその幅は50mもあれば十分という理屈なのだが、鉄砲の出現により射程距離は最大100mくらいまで伸びた。そうすると、鉄砲対策のため堀の幅は広がるはずで、堀の上には櫓や塀といった防御用構築物が作られるようになる。これが戦国後期に起こった築城思想の変化だ。
そうした戦国後期のノウハウが注ぎ込まれているのが藤堂氏設計施工の城だろう。愛媛県の有名な城、松山城が築かれたのはは戦国が終わった時期だから、設計思想としては松山城の方が新しい。しかし、海を使った防衛構想は現代にも通じる斬新なものだったはずだ。

復元された天守閣は小ぶりであるが美しい。何より石壁が戦国期特有の荒ぶれた見栄えなので、この城の美しさは堀と石垣なのだと、しみじみ思った・

今治から瀬戸内対岸までは大小の島々がつながり海の関所のようになっている。島と島の間を潜り抜ける航路は、朝晩で変わる潮流の流れのために、なかなかの難所だったらしい。
そこを利用した地元の民が、いわゆるみかじめ料を取る海賊になっていた。海賊といえば、某米国映画で有名なパイレーツを想像するが、あれはカリブ海で横行した海の強盗で、れっきとした犯罪だ。おまけに欧州では国家そのものがならず者であった時代だから、当時の欧州王国が勅許状を出して、国家公認の略奪に励んでいた。
瀬戸内の海賊は、それとは違うようだ。元々は有料で海路のガイドをする職業が、いつの間にか海峡通過のために関所代を払わなければ、暴力的に徴収するという発展的進化を遂げたらしい。海の民にとって生活の糧がガイド料だったはずだが、それが暴走して年月が経つとすっかり海上武装団になった。
室町時代、全国に張り巡らされた関所が交易と通行の阻害要因になったように、海賊の存在も交易にとっては邪魔になる。豊臣氏の天下統一後、海賊は禁止されるのだが、それは織田信長の楽市楽座から続く、商業自由化の流れの中で起こるべくして起こることっだったのだろう。
海賊時代の最後の頃に築城された今治城は、わずかにその頃の名残を残しているような気がする。

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