
松山城に行った。朝早く起きて、朝一番のロープウェイに乗った。山上の城閣を見る位置に一番乗りしたと思ったら、いきなり団体観光客の中に飲み込まれ、その後は外国人観光客グループに取り囲まれ、なんと朝から賑やかなことだと驚いた。

城の端、山上からの景色は絶景だった。さぞかしお殿様はこの光景が気に入っていただろう。山の上にあり、眼下に街並みが広がるといえば岐阜城が思い浮かぶ。越前大野城も似たような光景だったが、もう少しこぢんまりとしていた。城下に広がる街並みで言えば、松山城が一番の景色かもしれない。

しかし、その風景よりも感心したのが、山上にある井戸だった。城は長期間籠城することもある「防衛要塞」だから、当然ながら食料の備蓄と飲料水の確保が絶対条件だ。しかし、この山の上に自然な井戸があるはずもない。山中のどこからか水を引き貯める仕組みを作っていたはずだ。それがすごいと思う。

もう一つの感心したことは石垣の高さだ。一体どれだけの手間をかけてこの大量な石を山の上まで引き上げたのだろう。完成まで20年近くかかったそうだが、おそらく石を運び上げるのが工期の大半だったのではないか。
石積みの棟梁がいたとして城が完成する頃には、後継が次の棟梁になっているはずだ。20年とはそれほどの時間だ。親子二代の職人などゾロゾロいたに違いない。すごいなあ。

あちこちの城を見て回ったが、銃眼をしっかり見たのは初めただった。確か小さい穴は鉄砲、縦に長い穴は弓を打つときのものだったはずだ。実際に銃眼から外を覗いてみると、予想以上に視界が狭い。ただ、この城は城攻めをしようとすると敵兵が門や塀に誘導され、必ず銃眼にさらされる仕組みになっているから、ある意味誘導路と多重の罠とみれば良いのだろう。そして銃眼の多さは、建築主、設計者の執念を思い起こさせる。



日本にある数々の城だが、こと天守閣に関しては現存(戦国期・江戸期前期に建築されたまま残っている)しているものはたったの12しかない。ほとんどのお城は、先の大戦において空襲で焼けたものも含め、戦後しばらく経ってから再建されたものだ。
江戸期に徳川政権が成立したとき、かなりの天守閣は廃棄されたし、戊辰戦争後の明治政府は反乱拠点となることを恐れて、多くの城を打ちこわした。(忖度して壊した藩主も多い)
明治政府は革命政府である以上に文化の破壊者だったのは間違いない。文化的素養の低いものが政権を取ると、繰り返し起こる文化破壊だが、これは日本だけでなく世界的にありとあらゆる時代で起こっている。人類という種の蛮性だろう。

城壁の角を見ると優雅な曲線が現れれいる。この幾何学的美しさは、当時の石積み職人の素養の高さの表れだろう。現代建築には見られない美しさだ。



お城廻をして歴史に思いを馳せるのは、なかなか高尚な趣味だと思っているのだが、まあ、普通に観光している人となんの変わりもなく「おー、すごいなあ」と言っているのが実態であります。 (超特急で松山城ツアーは終了した)