
大山祇神社、弾丸ツアーのため前泊した松山で、夕方に時間が空いたので松山の大名物「松山城」ではなく、より由緒正しき古城を見に行った。鎌倉時代から戦国時代まで伊予(愛媛)の領主となっていた河野氏の城跡だ。平地に造られ堀と土塁で守られた堅城だった。

夕方の閉館直前、ギリギリのタイミングで資料館に入ることができた。城跡から出てきた陶器などが陳列されている。1000年近く前の人がこの皿を使っていたのかと思うと不思議な気持ちになる。

資料館の後ろが小高い丘になっていて、ここに城、防衛拠点があったようだ。戦国時代前なので天守閣はなかったはずだが、原平時代から室町期にかけての戦闘形態を考えれば(騎馬武者同士の一騎打ち)、ここはなかなかの難攻不落な要塞だっただろうと推測できる。

堀の横の盛り上がりが土塁であり、堀を渡ってくる敵兵にはこの土塁の上から矢を射かけたり槍で突いたりナギナタで切り付けたりと(ああ、痛そうだ)、あの手この手で防衛戦闘をしたはずだ。そして主戦闘は石投げだったに違いない。戦国期の戦闘は、罵り合い(口喧嘩)→石投げ→矢→槍→刀で乱戦という手順で進んだらしいので、この堀と土塁は戦闘初期に有効だった防衛施設だろう。

ツワモノどもの夢の跡、と言えばそれまでだが。この地を長く支配した河野氏も戦国の終わりと共に没落する。そして、そこに進駐してきた加藤氏が、かの有名な松山城を築くのだが、それは戦国期の鉄砲導入による戦闘形態の変化と、城の意味合いが防御拠点としての城から支配力示威のための城に変わったことを意味する。

愛媛県は100名城が5城もある名城大国なのだが、松山城の名声が飛び抜けているので他の城が霞んで見えてしまう。しかし、伊予国は瀬戸内海上ハイウェイの西側入り口だから、戦略的には間違いなく重要拠点だった。その拠点として古城、湯築城は長宗我部氏の四国統一が始まるまでは重要な役目を長く果たしていたのだ。
乱は常に辺境より起こるので、四国南部と南九州から起こった戦国期の西日本騒乱は、瀬戸内所領を巻き込んで大騒ぎになるのだが。それは湯築城とはまた別のお話なのかもしれない。
ちなみに、このお城から徒歩5分でかの有名な道後温泉だった。全く知らなかった。