
武蔵国とは、現在の東京都、埼玉県を合わせた地域になるはずだが、当時の都からみればほぼ地の果てだろう。北関東は下野、上野と名付けられているが、これは大和朝廷東征時代に「毛野国」があった場所だったそうで、そこが征服された後につけられた国名のようだ。「下の毛の国」がなまって「しもつけ」になり、「上の毛の国」が訛って「かみつけ→こうつけ→こうずけ」になった。
似たように大和朝廷の征服過程で統合された旧国名称が残されているのは、九州大分県周辺にあたる豊の国領土が豊前豊後となり、岡山県および広島県東部にあたる吉備国の備前、備中、備後のような感じだろうか。国名に滅ぼされた国の名称が残るのは、統合されたとはいえ、それなりに大国であったことの名残りだろう。非征服民への慰謝みたいな物だろうか。
僻地扱いされていた関東以北にある国は、いきなり「陸地の果て、国としては一番奥にある」などとこれまた酷い差別扱いで「陸奥」と名づける。大和朝廷のネーミングセンスは(統治センスも含め)、かなり低レベルというか繊細さに欠ける。
おそらく現在の宮城以北の諸部族、東北の地に住む先住民は、大和民族とは他民族と思っていた節がある。東征により従えた北関東までの国家群は、少なくとも同型民族扱いしていたはずだし、北関東に多数残る古墳群からは大和朝廷の影響が強く感じられる。尾張の豪族、信濃の豪族についてはまた別のストーリーがあるようだ。
話を戻すと当時の「武蔵国」は、今のように平野が広がっている土地ではなく、利根川、荒川などの大河川でズタズタに分断された「湿原」地帯だったようだ。農業先進地域である西国では、灌漑がすすみ治水事業も行われていたが、戦国末期まで武蔵国は湿原地帯、未開の地として放置されたままだったようだ。
だから、水がつからない場所、つまり台地や高地部分で麦作が盛んになった。他にもいくつかの要素はあるが、武蔵国と上野国では麦がたくさん取れ、それをうどんにして食べた。うどんは農業後進地帯のローカル食であり、米の代替食だったのではないか。などとあれこれうどんを食べながら考えていた。
生まれ育った北の島では、開拓当初の時期は米が取れないばよが多かった。先人の苦労で米の北限はジリジリと北上していったが、代用食として馬鈴薯、つまりじゃがいもが幅を利かせていた。
ローカルなじゃがいも料理(それも実に素朴で料理とは言えないレベルが多い)は、今ではすっかり観光客相手の売り物になっている。家庭の日常食としては衰退してしまった感がある。
じゃがいも料理とはまるで異なり、武蔵野うどんは今でも現役バリバリのローカルフードだ。つゆに入ったかけうどん的な物ではなく、もつけ汁で食べるスタイルが原型だが、そこからかなり派生的に「つけ汁のバリエーション変化」が生まれた。おそらく最初の頃は、出汁の効いた醤油味だったのだろう。それに、肉やらキノコやらの豪華な具沢山のつゆが加わったはずだ。つゆ革新運動?の流れにあわせて、カレー味は生まれた。蕎麦屋のカレー南蛮の直系子孫というか、丸パクリでしかないとは思うが。
だが、そのパクリ品が最近は実にうどんにあう、うまいと感じる。一番ポピュラーな肉汁うどんより、カレー味の方が料理としては一段レベルが高い気もする。カレー粉が一般糧に生で広がるのは明治後期以降らしいので、カレー味は比較的新規導入された物だろう。ひょっとすると昭和生まれかもしれない。
関東の蛮族と馬鹿にされていた大和朝廷の時代とは異なり、いまや武蔵国の文化レベルは格段に違うのだよ。というか、武蔵国が日本の文化を牽引している。その食文化の最高峰が「武蔵野うどん」というと言い過ぎか……………

ちょっとだけ付け加えると、武蔵野うどんの中心地はどこになるかと問われれば、答えはいささか微妙になる。東京都下の多摩地区と埼玉県西部にある所沢狭山市周辺がうどん屋の密度が高い。武蔵国の時代には、地理的行政的境目がなかった一塊の地域であったせいもある。
周りに水田がないこと、地形が台地であることから当然ながら麦作地帯だったと推測できる。川越付近は(その昔は武蔵国の中心都市だった)周辺に大河があるので稲作が盛んだが、川から離れた地域、熊谷から行田にかけての内陸台地でも、うどん(小麦粉製品)はよく食されているらしい。(加須はうどんで町おこしをしている)
個人的には、旧武蔵国西部地域、つまり川越、所沢、熊谷、加須などが連携して埼玉うどん文化圏を名乗り、武蔵野うどんの普及拡大キャンペーンでもすれば良いのになと思う。
うどんは讃岐うどんだけではないぞ、という坂東武者の心意気(なんだ、それ)を見せても良いではないかと。だが、埼玉県庁に巣食う官吏は文化より経済、それも東京隷下での属国化を選んでいるようだ。
大和朝廷の時代から、地方官吏の考えは中央に媚びへつらう、変わりばえのしない物らしい。