
すすきののとあるビル地下にある焼き鳥屋は、酒蔵直営の老舗だ。昭和レトロなどというまでもなく、時間が止まったような店内と時間が止まったようなメニューにホッとしているのは、オヤジ族だけではない。不思議なことに若い衆も多くいる。おまけに、なぜこんなところに来たと言いたくなる若いカップル(会社の先輩と後輩かもしれない)が、人生を語っていたりする。
世の中の辛さを語るにはシチュエーションを考えようと、助言したくなる。これは、最近のジェンダー問題を超えて、この煙くさい焼鳥屋に連れてきたであろう先輩男子が悪いぞと思う。後輩女子(?)の背筋がシャンと伸びていることから推察するにだが。ひょっとすると昔懐かしい焼き鳥屋に連れて行ってくださいと、後輩が頼んだのかもしれないとは思うが、その可能性はかなり低いだろう。
そんな社会的考察は、まあ、どうでも良いことだし、この店では一人で来てくいくい飲んでチャチャっと帰るのが似合っていると思うのだ。

おそらくこの店で一番期待を裏切る商品が、湯どうだと思う。ちなみに、冷奴を頼んでも見た目は同じだ。豆腐が冷たいままか、温まっているかの差しかない。それが潔いと言えば潔い。こちらの気分では、土鍋に入っていて昆布の一切れでも沈んでいる煮た豆腐が湯豆腐だと思っているだけに、初めて見た時は意外だった。いつも湯豆腐を頼むわけでもないので、だいたい注文するのは冷奴で、たまに湯豆腐を頼む。そのたびにギョッと驚いてしまう。経験を通じても物を学ばないのは、ダメオヤジ特性だと思っていたが、実はそれが自分にも適用されるとは。情けないものだ。湯豆腐を頼むたびに(テーブルに置かれるたびに)トホホという気分いなる。

言葉遣いには注意が必要だ
湯豆腐の次には串を頼むのだが、今回は鳥抜きでタン串にした。なぜか肉の間にたまげ技が挟まっているのは札幌独自なものだろうか。埼玉県東松山の焼き鳥?も玉ねぎが挟んであったような記憶もある。全国あちこちで玉ねぎサンド系焼き鳥は存在しているのだろうか。
札幌の焼き鳥屋は焼き鳥ともつ焼きが渾然一体となっている。というかもつ焼きと焼き鳥の区別がない。東京に行ってもつ焼き屋の親父に「うちはもつ焼きだから、焼き鳥はない」と言われ注文にご指導を受けた記憶が今でも抜けない。あれが東京ショックの第何弾だったかは思い出せないが、地方都市出身者が東京で受ける悪意か善意か区別のつかない洗礼だったのは間違いない。(多分、悪意が大半だと思うが)
その東京ショックに慣れる頃には、自分も誰かに悪意の洗礼を浴びせるようになっているのに気がつきゾッとしたものだ。東京は悪魔都市だと思い知った。だから、地方都市出身者は東京に暮らし続けると、最後まで自分なりの流儀を守り切ることができず、いつの間にか東京風に染まってしまう。染まりきれないものは、東京を捨てて故郷に帰るべきだ。
自分も含めて、魂のどこかを東京というメフィストフェレスに売り渡して、大都市の下っ端眷属に成り果てる。まあ、その下っ端眷属を三代続ければ立派な江戸っ子、東京市民、上級住民になれるのだろう。
たかが焼き鳥からジェンダー問題を超える都市住民の出身地差別問題(笑)にまで思いを馳せる。札幌の焼き鳥屋はあくまで哲学的な場所なのだ。