街を歩く

花見とキャンプ

今年も桜を見ることができて安心した、という楽曲を歌っている女性シンガーのアルバムを毎年この時期には聞き返す。歳をとることを肯定的に歌っているのだが、100歳まで頑張って生きていくのよと歌われてもなあ………とずっと思っていたが、年々その感覚が強くなる。
ただ歳をとるとその分だけ桜の楽しみ方が変わるという点には同意する。若い頃より、明らかに桜を見るのが楽しくなってくる。まあ、桜の散り際の良さに憧れるというのもあるのかもしれない。満開の桜の下で桜餅を食べるのは、とても楽しみだ。目で楽しみ舌で楽しむ。春爛漫とはこのことだ。

などと考えているのだが、世の中には桜の下でキャンプをしたいという方もいるようで、よくいく近場のキャンプ場では、桜の花散る中で賑やかなデイキャンプをしていた。週末の午後でもあり、夕方には宴会を終了してお帰りになっていたが、皆さん車なのでノンアル宴会だったようだ。時代は変わり、宴会でアルコールが不要になったとは、これまたすごい時代の変わり目なのだろう。タバコの次はアルコールが社会的に息の根を絶たれるかなと思った。
ちなみに、このキャンプ場はワーケーション仕様で、キャン場内完全にwifeが対応している。これもまたすごい時代だなと思う。

ただし、その現代仕様のキャンプ場の外は、昔のまま、武蔵野の雑木林が残っている。雑木林の中は、まさに雑木なので色々な種類の樹木が生えている。整然と整備された公園の並木とは異なる、懐かしいというかホッとする感覚がある。里山が近くにある場所で育った「田舎育ち」であれば当たり前の光景だろうが、大都市圏で自然とは整備された公園と錯覚している子どもたちには、トトロの森のような場所なのかもしれない。
雑木林の中では様々な鳥の声も聞こえてくるが、支配的なのはカラスのカーカーという声だ。それと、鶯がたまになく。カラスの声は……………あまり風情がない。

組み立て式の焚き火台とテーブル、カトラリーセットで設営完了

そんなキャンプ場で、ソロキャンプのおっさんたちは、なぜかキャンプ場周りの植え込みに向けてテントを張る。人や車の姿を視界に入れたくないということらしい。テントのお尻が全部自分の方に向けられているのだから、その意図は明らかだ。
だから、このキャンプ場は夜になっても他人様の明かりが目に入らない。

湯沸かし用にカセットコンロを設営置けば完了 そのあとはのんびり読書

今回は、駐車場に停めた車の中で寝るつもりなので、テントは貼っていない。ワンタッチで設営できる日除シェルターの中に、ユニット化したキャンプ道具(プラスチック箱に用途別に整理したもの)をおろし設営完了。椅子と焚き火台を組み立てるまで、所要時間はほぼ10分だ。撤収時も多少手間取っても30分程度で完了する、時短キャンプに挑戦してみた。
お湯を沸かしてインスタントコーヒーを飲む。ゆっくり歴史小説を読む。夕方が近づいてきたら焚き火で飯を作る。時間の使い方が変わったなと自分でもわかるのだが、限られた時間の中で何かをどれだけできるのかと考えるのをやめるてしまった。すると、新たに見えてくるものがある。
ほとんど何もしないで、ぼーっと過ごすのも良いものだという感覚だが、これは単純に脳細胞が死滅してものを考える能力が低下しているだけかもしれない。焚き火の火を見ながら、しょうもないことを考えている。美味い飯も美味しい酒も、最近ではどうでも良くなってきた。「人間は退行する生き物だ」という言葉が何の脈絡もなく浮かんできて、思わず自分のことだと苦笑していた。
花見の時期は物憂げになってしまうので(主に花粉のせいだが)キャンプとはあまり相性が良くないらしい。案の定。この日はやたら花粉が多くて鼻水が止まらなくなり、やはりおうちにいればよかったかとちょっと反省してしまった。

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