
昭和レトロブームと平成生まれの関係について何度かに分けて考えてみたい。その第一回目として、居酒屋チェーンの新業態「居酒屋+大食堂」を素材にしてみようと思う。
この業態は首都圏でそれなりの規模と知名度を誇る「天狗チェーン」が久しぶりに送り出した新業態だ。一時期は郊外型ファミレス的出店をしていたが、それは失敗だったようでダイニングコンセプトは縮小していた。その後、小型化した簡易メニューの飲み屋天狗酒場を投入したが、最近では神田屋という新業態に鞍替えしているようだ。
その神田屋の展開と合わせて、食堂をイメージした大型店も店舗数を増やしている。「大ホール」という名称から想像してしまうのが、昭和のデパート大食堂やビアホールといった大型店舗だ。食券を買い勝手に空いている席に座り、ウェイトレスのお姉さんに食券を渡す。メニューは和洋中なんでもありで、アルコールとパフェが共存する老若男女が入り乱れる懐かしの飲食パラダイスだ。テーブルの上にはお決まりのように大きな急須に入った茶と湯呑み茶碗が置かれていて、お茶と水はセルフサービスだった。そんな昭和中期の記憶が残る世代はすでに50代を超えている。昭和後期にはデパート自体が消滅したので「大食堂」コンセプトは、平成生まれ世代には生まれる前の幻でしかない。

極端に言えば、江戸時代を模した和食屋であれ、昭和中期の大食堂であれ、どちらも想像の中にしか存在しないファンタジー空間だ。だから、現在の昭和レトロブームに対する評価は、昭和生まれの人間に聞いても役に立たない。昭和生まれの人間は懐かしさ、ノスタルジーに浸るだけであり、そこに登場するメニューにも当時の(記憶の中に残る当時の)忠実な再現性を求める。そして、違いを発見してはあれこれあげつらうという楽しみ方しかできない。昭和生まれにとって昭和レトロというコンセプトは過去に経験した、時間軸に連続性があるリアルな過去体験だから、そんな楽しみ方になる。平たく言えば、文句をつけることに楽しみを見出す、「痛いエンタメ」だ。(周りから見ても、その言動はかなり痛いたしい)
しかし、平成生まれにとって昭和レトロとは、たまに過去映像の中で見かける存在程度であり、共有する体験や空間ではない。これも極端に言えば、浦安にあるネズミの国の「なんちゃらワールド」とほぼ同義な、想像の中にしかない異空間だ。怪獣映画や戦隊モノに登場する世界となんら差異はないのだろう。
もっと言えば、外国人が見た日本世界みたいなもので、ブレードランナーに登場する未来の西海岸都市(たぶんLAの異形態)やブラックレインに登場する東京市のようなものだ。
だから、当然ながら、平成生まれの世代にとって、楽しい異空間、日本語は通じるが見たことのないデザイン、内装の店で、食べたことのないメニューを楽しむ。そうであれば、ディテールの再現性など気にしない。アメリカ人の寿司屋が、日本ではこんな寿司を売っているのだろうと想像して作った、西海岸発の新発想寿司みたいなものだ。エンターテイメントとしての食事空間とし、昭和らしさが感じられればコンセプトとして成立する。時代考証の正しさなど必要ない。
過去に実在した食べ物の再現性、正確性など誰も求めていない。ところが、昭和中期の過去体験がある昭和生まれが、その仮想空間に乗り込んでワーワーとリアリティーを前面に押し出し非難する。やれ、これは昔と違う。味付けがおかしい、食器が違う、内装が、ウェイトレスの制服が、云々云々。
コンセプトの理解ができないまま我が物顔に論評する。
この店はあなたのノスタルジーを満足させるために作られてはいないのですよ。そもそもあなたはお客の対象外ですよ。嫌なら他のどこかに行ってください、とはっきり言われないと理解できないのだろう。
まさに、昭和レトロを模した店とは、歴史テーマを掲げた「コンセプトレストラン」であり、手近なエンタメテーマレストランなのだ。形を変えたメイド喫茶みたいなものだと理解するべきだろう。
自分の同世代(昭和のリアル体験がある世代)から昭和レトロ空間に対する「再現性の低さ」や「時代考証の誤り」のような批判を聞くたびに、何かモヤモヤした感じがあった。そのモヤモヤ感を探るため、あれこれ突き詰めて考えていた。

街から食事を出す喫茶店が消滅するとともに、人の記憶の中にしか無くなったメニューの典型が「ナポリタン」というトマト味の洋風焼きそばだろう。今では昭和レトロメニューの典型のように言われるが、平成生まれはこの食べ物をたまたま食べる機会がなかった。彼らが普通に手に入れられたのは、サイゼリヤで提供されるペペロンチーノやカルボナーラのパスタで、トマト味の洋風焼きそば。スパゲッティではなかった。「ナポリタン」はイタリアンレストランではほとんど提供されない、日本生まれの洋食だ。おまけにファミレスでも登場しなかった「絶滅種」だからなおさらだ。古くから続く洋食店では細々と提供されているが、洋食店も喫茶店に続く絶滅危惧種であり、当然ながら価格もファミレスをはるかに超える高級料理化している。老舗の洋食店で食事をすると、ちょっとしたホテルのレストランで食べるのと同じ金額がかかる。もはや洋食店は大衆がお気軽に使えれ場所ではない。

昭和の時代には、駅前にある大衆食堂の壁全面にメニューというか品書きがびっしりと貼ってあった。ファミレスとファストフードの時代になり、手書きの文字が敬遠され、メニューは手元で見る写真入りの冊子に変わった。

そんな平成生まれをターゲットにした昭和レトロを気取る食堂は、意外と昭和のメニューが少ない。典型的な居酒屋商品も並んでいるが、昭和の何度かにわたる居酒屋ブームに登場した時代の名物料理も全く存在していないようだ。
そもそも、冷静にメニューを見てみると、これは既存の居酒屋天狗からの流用品がほとんどで、その提供方法や価格が調整されているだけだ。贖罪の大冒険をしているわけではないから、店内のムードを買え、ちょっと加えた新メニューで目を二機つけると言う、極めてオーソドックスなリニューアルと見た方が正しいようだ。

昭和世代にとっては、「超」がつくほど高級品イメージのあった生ハムも、今ではコンビニに並んでいる平凡な通常品だ。ただ、それがさらに盛り付けて出されると、何やら心躍るのは昭和世代の残滓みたいなものだろう。平成生まれにとっては、これよりもタコさんウインナー(赤いやつ)の方がよほどビジュアル的には喜ばれそうだ。

サワーやハイボールなどの炭酸系アルコール飲料が主体のご時世に、日本酒の熱燗を注文すると銚子ではなく、フグのひれ酒を出す時の湯呑み茶碗で出てきた。これにはは、すっかり感心してしまった。おそらく銚子という低利用頻度の専用備品を用意するのが嫌になった(合理的な判断ではあるとも思うが)のだろう。オカンをするのもレンジアップの時代だから、通常の銚子では安全上の懸念もある。レンジアップした場合、銚子の上部、首にあたる部分がとてつもなく熱くなる。昔ながらのお湯でオカンをつけると、胴体の部分は熱く、首の部分は比較的低温であるのとは正反対だから、昭和世代のオヤジは銚子を保つときに首部分を持って「アチチ」と叫ぶハメになる。
湯呑みで缶をつければほぼ全体が暑くなる。
そんなことを考えて、昭和レトロな店の作り方やあり方をあれこれと想像していた。確かに「天狗」と言うチェーンは昭和の時代にも、ちょっとアッパーなイメージを抱かせる明るく小綺麗な店だった。それを、平成生まれにあわせて「令和モデル」にアップリフトする、アフターコロナに合わせてチューニングした店を作ろうとしているのだ。本業を捨てて唐揚げ屋や焼肉屋に逃げ出した他チェーンとは違うアプローチだが、個人的にはこちらのやり方がスマートで好感が持てる。