
テレビのニュースで大通公園で開かれている雪まつりの風景が写っていた。この写真の場所がまさに大雪像が安置?されるところだが、高さが10mにも達するゼ雪像を作成できるほど、公園の中に雪が降るはずもない。あの雪は、札幌南部にある山の中から移送してくる。山の中に置いておけば春には溶ける雪をわざわざ都心部まで運び込み、雪像を作った後に危険防止のため、また人手をかけて取り壊す。冷静に考えれば、なんだか人手とエネルギーの無駄遣いとしか思えない「おまつり」なのだ。
雪まつりの始まった当時は、そこいらに積もっている雪を使って雪像を作っていたはずなのだが、雪像の大型化に伴い、雪が建築資材のように周辺から「集められる」ものに変わって行ったようだ。大雪像の映像は「映え」シーンだから目にする機会も多いが、取り壊された雪像の哀れな姿を目にする機会は少ないだろう。4月になるまで、薄汚れた雪の小山があるのも、雪まつり会場である大通公園の真実だ。
北国では冬になると外出しなくなるので、屋外イベントは大事だという意見もあるが、この現代世界ではなんとも時代遅れな認識だろう。移動は車になり、とてつもない降雪、地吹雪のタイミングを除けば、冬だからといって行動範囲が狭くなることもない。郊外にできた大規模ショッピングモールは冬でも賑わっているし、モールの中は快適そのものだ。冬のモールは暖かさよりも雪のないところを歩ける快適さが好まれるのではないか。
札幌市内に地下街が広がっているのも同じ理由だろう。最近の北海道は夏に酷暑期が訪れるようになり、夏のモールは涼を求める「冷房難民」も多いようだが、それも盛夏の一時でしかない。つまり、モールの価値は雪の降る時期に発揮されると言って良い。(ここは、勝手に断言する)
やはり雪は楽しむものではなく、面倒なものなのだ。大量に雪が降る東北や北海道の北日本、そして日本海側の地域では、雪は台風並みの自然災害に近いと思うのだが、なぜか積雪量の少ない地域の方々は、雪に浪漫を求める傾向にある。その度合いは、全く雪の降らない南方の国から来る外国人観光客になると激しさを増す。
昔の仕事相手に赤道直下の国から来る人たちがいて、なぜか冬になると日本に出張したがっていた。おまけに、東京で会議をやるのではなく、北海道で集合しての会議を望まれる。はっきり言って迷惑だった。雪が嫌いな人間を、雪深いところに呼びつけるとは、まさに蛮行というしかない。
などとはっきり言えるわけもなく、雪まつりの季節は札幌のホテル予約が難しいとやんわり断るのだが、それではお前の分も南の国の旅行代理店で予約してやるという、なんとも親切ではあるが、あまりに鬱陶しい対応をされたこともある。もう、勘弁してくれよという気分だった。
寒いのは我慢できる。おそらく耐性もある。しかし、雪は嫌いだ。歳をとるごとにどんどん嫌いになる。これは、人類のDNAに刷り込まれた本能的な忌避感ではないかと思うが、どうも人類の幼生体は雪が好物らしいので、この先に愛すべき幼生体が身の回りに出現すると、雪で遊びたがる事態は容易に予想できる。いささか困った状況だ。雪を嫌ってばかりもいられなくなりそうで、消極的ではあるが「雪対策」を考えるべきだろうかと、悩んでいる今日この頃であります。