
能登国の一ノ宮が、今年の一宮巡りの最終になる。東日本で残るのは佐渡国だけになるので、これはもうしばらく先になる。西日本になると沖縄、対馬、壱岐という強豪(離れ島になる)が残っているし、日本海側はこれから雪の季節になる。桜が咲く頃にまた巡礼(笑)に出かけたいが、その時期は西日本の花粉大爆の季節になる。それがうっとうしい。5月の連休明けくらいが良さそうだ。

気多神社は実に神社らしい神社だった。能登国の中心だった羽咋の平野部には田んぼが広がる。その平野が山地になるあたりの低い山上にある。まさにオヤシロという感じがする。拝殿までの道は実に綺麗に掃き清められている。これこそ、我が心にある「神社」の風景だ。そして人気のないところが、また神社らしい。

学生の頃、奈良に行ったときに見た春日大社の朱色を「けばい」と思った。侘び寂びなどわかる歳でもなかったが、寺社仏閣にはけばさが似合わないのではという漠然とした感覚があった。実際には、寺の中の御本尊は金ピカであったりするので、それなりに「けばい」といいうことに気がついていなかっただけだ。
その神社の朱色が、なんとなく良い色に見えてきたのは人生を半分以上過ぎたオヤジになってからで、厳島神社の海上にそびえる鳥居の朱色が瀬戸内海と調和して見えたのもその頃だ。
ただ、やはり神社は少し古びた落ち着いた木造が良いなと今でも思う。このちょっと古びた感じの加減がなかなか難しいのだが。
北陸にある神社は、どれもこれも良い具合の古い感があった。その中でも、鳥居から拝殿までの距離というか広さというか、そのバランスが良いのは、この氣多神社が一番だろう。

能登国は、今の日本、太平洋岸中心世界から見ると随分と辺境の地に見える。東京からの移動距離、時間で考えると島根県中央部と能登半島は東京から最遠隔地にあたる。不思議なことに、どちらにも人口に見合わないと思う空港が設置されている。一つの県内に複数の空港があるのは、秋田と石川、鳥取、島根くらいで、地理的な問題と地盤政治家の力の結果だと思う。大都市部である東京、大阪、名古屋にも二カ所空港があるが、大阪と名古屋は新空港ができた後の旧空港利用であり、メインとサブ的役割り分担がある。羽だと成田はまた別のストーリーになるが。北海道は別格で、千歳をメインに、函館、旭川、帯広、釧路、稚内、女満別、中標津、紋別、丘珠とたっぷりあるが、これは昭和中期の冷戦構造が生んだ落とし物だ。それだけ軍備としての空港が必要とされていただけだ。今では商業的に成り立たない、すっかりお荷物な交通インフラになりつつある。
閑話休題。しかし、古代日本では日本海航路は大陸との貿易ルートとしても重要だったから、能登国は日本海航路中継地として重要拠点だった。賑やかしい場所だったはずで、その名残が氣多神社にある。

メインである本殿を取り囲むような分社というか、周りにはべる神々がある。主神と取り巻く神々とは、その地域の政治勢力の盛衰に関わりがある。勝ち組が封じる神様が、主神となる。この複数神の関係性は、大和朝廷の日本海統治と繋がりがあるのは間違いないのだが、それを調べようとするとなかなかの力技というか、我が手に余るというところもある。
明治期に起きた国家神道のため、そしてその前の神仏習合時期を含め、どうにも古代の神社のあれこれを探るのは難しいようだ。古事記伝を元に古事記を読み解くという手もあるのだろうが、歴史好きの素人程度では手におえない。

神社には秋の日差しが似合うと思う。夏の強い日差しと蝉の声は、神社には似合わない気がする。だが、お寺の境内であれば良さげな気がする。この神社と寺の感じ方、というか捉え方の違いは自分でもよくわからない。
信心深いわけでもないので、深く考えることもなかったが、宗教とか信心とかとは離れて、日本人の源流的文化を考察をしてみても良さそうだ。それにふさわしい歳になった気がする。なぜ日本人は神社の静けさが好きなのか。なぜ、日本人は神社に初詣に行き、葬式は寺でやることが多いのか。その類の、何気ない日常行動の中にある、誰も気にしていない「古代から続くこの島国で暮らすものの精神」みたいなことだ。
そんなことを神社の境内であれこれ考えていると、昔読んだ司馬遼太郎のエッセイ的な論考を思い出した。小説を書くより、論文的なものを書くようになってから、司馬遼太郎の思考は変わっていったと思うのだが、五木寛之も同じ道を歩んだ。おそらくそれが歳をとるということなのだろう。
自分も同じようなジジイになってきたので、もう一度、司馬遼太郎論文を読み返してみようか。もしかしたら、昔と違い司馬思想に同意できるかもしれない。
静かな境内で思ったことだ。