小売外食業の理論, 旅をする

もう一つのうまいものin金沢

金沢駅の正面に立つと、一際目立つ華麗な門に出会う。日本の駅で一番美しいと感ずる金沢駅の入り口だ。同じような観光都市であっても、新幹線を降り立った場所は実にがっかりすることが多い。その典型が京都駅で、南北どちらの入口も「らしさ」などかけらもない。
東京駅は、オフィスビルこそ首都の景観だと言い張れば、なんとなく説得ができそうだ。特に丸の内は、丸ビルなどの風景こそ首都のあり方であり、お江戸風情など全く昔語りのノスタルジーと切り捨てている。そう思えば良いことだ。改装後の東京駅丸の内側は、その首都のあり方を伝えている「名所」だろう。たった150年前の建物すら保存しようとしない、近代日本の潔さだ。
逆に中途半端なのが、新大阪や新横浜、新神戸などの「新」がつく駅で、これはいわばどうでも良い駅の象徴だ。昭和中期の文化とは、こういうものだったという反面教師なのかもしれない。東北新幹線の駅は、どこの駅も同じ見栄えだし、九州新幹線では駅舎が街から浮いている気がする。
だから、やはり、金沢駅はすごい。

そのすごい(と想う)駅の近くにあるホテルで会食をする機会があった。レストランの入り口には、ドーンと大皿が飾られている。この皿には実用的価値はない(と思う)。美術品として作られたものだ、この皿の上に料理を乗せたりしないはずだと思うのだが………
それにしても、この状態をなんといえば良いのだろうか、言葉を選ぶのに困る。皿を陳列している、では正しい意味にはならない。飾るというのとも違う気がする。訪れた客に美しいものをお見せする、ということだろう。押し付けがましさはない。美しいものは、隠してしまうのではなく、見せるものだという意識だろうか。
やはり、古都というものが作り出す文化は、たかが100年程度では仕上がらないということがわかる。お江戸でも江戸文化が完成するまで200年余りかかった。そのお江戸を継承していない文化強奪都市「東京」は、強奪後150年経ったいまでも古都を名乗る貫禄はない。

ビルの中隔に庭園を作ろうとする試みは、文化強奪都市東京でも見かけることはある。ただ、規模で見ると箱庭程度の貧相さだ。京都の町家改造レストランで見かける小ぶりのものがよほど立派にみえるものだ。設計思想の根底に、あざとい経済効率が入り込むから東京の箱庭は貧しく見える。それなら盆栽でも並べておけば良いのにと思う「なんちゃって箱庭もどき」がほとんどだ。
この金沢のホテルでは、レストラン面積の1/3程度が空中庭園になっていた。席効率だの回転率だのという、レストラン経営の公式からすると、無駄の極みというしかない。その不経済な代物が平然と存在することが、古都の古都たる所以なのかと思いしらされる。

おいしく懐石料理をいただき、ゆったりとした時間を過ごした。おそらく、贅沢というものは、こういうことを言うのかと思う。レストラン、飲食店、外食産業、いろいろな言い方はあるが、食べ物を提供することを生業とする者にとって、味という無形のもの、雰囲気という無形のもの、過ごした時間の満足度合いという計量できないものをどうしつらえるのか。その一つの答えが、ここにあるなあとぼんやり感じていた。

味の嗜好は個人差がある。万人がうまいというものは無い。それでも、見た目や盛り付けや器で楽しませることができる。料理は舌で味わう前にも目で楽しむものだ、というのは人類にとって不変の事実だ(と勝手に思っている)。
それは日本料理だけのものでも無いので、日本料理文化礼賛論者とは一線を画しておきたい。なんでも日本が一番という文化的狂信者はどうにも好きになれない。
どこの国の料理にしても、器と料理のバランスこそが、美味しさの秘密であることは確かで、家庭料理とプロの料理の一番の差は味付けではなく「豊富な器」が可能にする美なのだと思う。

最後に出てきたいちごのシャーベットの器に一番驚かされた。シャーベットの出来栄えは素晴らしい。甘さ控えめなのが、和食の締めとして調和している。ただ、この華麗な皿が伝えてくるものが、金沢のご飯を「目で楽しんで」いただけましたか、と言うメッセージのような気がした。すごいな金沢。
金沢発のファストフードチェーンができれば、なんだか日本食文化の革新になりそうな気がしている今日この頃。金沢カレーが進化すると、何か革命的なことになりそうなのだけれど。

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