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越前国 一ノ宮

越前国一ノ宮は大きな神社だった。敦賀は古代から日本海沿岸航路の要衝であり、京都から北陸道を目指すとき、陸路では最初の入り口にあたる。海路と陸路との結節点でもあった。瀬戸内海航路が古代日本のメインルートだとしたら、日本海ルートは最大のサブルートであり、日本海沿岸諸国こそが大和朝に対する最大脅威だったはずだ。北陸統治は初期大和朝廷にとって重要な戦略課題だったと言える。
その北陸統治の出先機関が敦賀に置かれていたのだから、一ノ宮は大和本国式神社でそれも大きなものでなければならなかった。その名残は鳥居前に置かれた官幣大社と記された柱でわかる。ただ、官幣大社の称号は大和朝廷のものではない。明治初期に制定された国家神道における階層付の名残だ。古代大和朝で統治機構の一部として活躍した大神社は、延喜式による神社一覧に設定されているが、官幣社とはあまり関わりがないようだ。
しかし、「官幣大社」に認定された神社は、古代から日本海沿岸地域の最重要拠点であったことに違いはない。

祭神の系譜を読めば、気比大神が地元の神、つまり日本海沿岸国家の伝承神であり、非征服国家の主神であったようだ。そして大和朝の統治が進むにつれ大和系神族が合祀されていく。古代日本の征服と統治と融和の歴史がよく見える。
地域の主神が、その他大勢の神になっていくのは何世代にもわたる統治と順地が必要だっただろう。大国出雲ではそれに逆らい続けていたから、出雲大社の独特さが残せたのではないかと思っている。まあ、それも明治政府による国家統制された神道という強化策で、日本の「地の神」は大和系神族の一味にされてしまったという感が強い。
江戸期以降、宗教の統制が緩んでいた時期が長かったせいか、明治政府時代の狂信的とも言える国家宗教がかなり異質に見える。その後、敗戦で国家神道が全否定されたこともあり、今の日本では「歴史」と「宗教」を捉え直すことすら行われていない。
大多数の一般人にとって、神道とは結婚式の時と七五三のお祝いに使われる伝統イベント主催者程度の認識しかないだろう。信ずる神の違いで弾圧されたり、非国民扱いされたりする暴虐の時代よりよほどマシだとは思うが。
よく世間の話題に上る「閣僚の靖国神社参拝」についても、隣国からのクレームがなければ、誰も関心を持たないだろう。まさに信教の自由だし、個人の信念の自由だ。隣国の宗教問題に口を出すのは、古代から中世にかけて起こった歴史的事件でしかない。
現代世界で問題なのは、隣の国がどの神を信じているかではなく、どんな兵器を持っていて自国の脅威になるかでしかない。ただ、それを「宗教」と絡ませようとする国があり、問題をややこしくさせている。
というように、神社の縁起を読むと、国際関係まで考える羽目になるのだが、現代日本人的にはもう少し軽い態度でお参りしても、神様は怒りはしないだろうと思う。

拝殿も立派だった。やはり、一宮はこれくらいの大きさであってほしい、というのは個人的な勝手な思いだが、どこの一ノ宮も歴史が長いだけにやはり地域の方に尊崇されている。
まあ、神社も見た目が大事なのは今にはじまることではない。神代の昔から、大きくて広い神社ほど大切にされていたのだ。屋根の形を見ると、どうやら日本海沿岸方式とはちょっと異なるので、ヤマトと越の両タイプがミックスされた融合型なのだろう。

ここにお参りした時期は、日本全国の神様が出雲出張されているはずで、お参りしても神様は不在かなとは思ったが、出雲は越前、若狭から案外近いので日帰出張している可能性もありそうだ。とすると、やはり真面目にお参りしなければな、などと馬鹿なことを考えていた。

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