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安土城を学びましょう 

JR安土駅のそばに「安土城城郭資料館」という立派なものがある。駅の出口を出るとすぐ脇にあるので、この手の博物館としては珍しいとても便利な場所だ。織田信長というよりも「安土城」に焦点を絞り切り、小ぶりながらキレの良い歴史博物館だと思う。
どうも地方にある歴史博物館は、そこに地域の歴史的遺物をなんでも押し込めてしまう傾向があり、整理が悪いというか何が言いたいのかわからないものが多い。夾雑物の多さを史料の豊富さと勘違いする「学芸員」が多いからなのかもしれない。あるいは、歴史的センスのない、派遣されてきた腰掛け管理職の横車という可能性もある。
個人的に思うことだが、その混乱が少ないほど、観覧者は理解がしやすい。その点、この資料館は実に素晴らしい。「安土城」一択だからだ。

安土城の再現モデルを見ると、なるほどこんな城だったのかと、感覚的に分かりやすい。ただ、こんなに真っ黒な城だったのだろうかという疑問も残る。たしか、安土城はかなりきらびやかな外観、内装だったと読んだ記憶があるのだが。真っ黒がルックスとして良いとされたのは、江戸期に入ってからではなかったか。
この黒塗りの壁と瓦では、山の中に溶け込んでしまうだろうと疑問が湧く。開城時には信長自身が入り口で入場料を取って領民に見学させたという、賑やかさというか晴れやかさはどこに行ったのだろう。

この安土城再現モデルが実に素晴らしいのは、係員の操作で二分割され(モーターで動く)内部が見えることだ。驚くことに、エレベーターまであったらしい。信長はこの屋上階付近に居住していたというから、階段では恐れ多いということだったのか。エレベーターの動力は、当然ながら人力だったのだろうなあ。
しかし、追い詰められたとはいえ、自分の親父が建てた立派な城を焼いてしまうのだから、信長の息子はやはり後継者にはなれない凡庸な二代目未満だったのだ。(二代目は信長と一緒に京都で敗死した)

地味に素晴らしい資料が、この安土城周辺のジオラマモデルで、当時の琵琶湖湖岸線を含めた、地政学的要素が一目でわかる。左が安土城なのだが、ここを攻めてこようとすると、右側の山上にある観音寺城から腹背を取られる。琵琶湖を船で渡って安土山西岸や北岸に取り付いても、それは敵前上陸作戦になり、当時最強の砲師団を持っていた織田軍に山上から撃ち降ろされるので、現実的には攻略が難しいだろう。そもそも琵琶湖周辺は織田領なのでどうやって大量に兵団輸送をする船を調達するか(造船するか)を考えれば、全く実行が無理な作戦になる。
普通に考えれば、当時の日本で最大級の防衛拠点だったはずだ。琵琶湖水運を使った用兵基地として使われていただろうし、織田信長直営の常時軍もいたはずだし、この安土城から信長を引き出さない限り、彼の治世は終わるはずがなかったのだが。そういう意味で、安土城から引き摺り出した明智光秀は反乱軍として賢かった。

入り口には信長愛用の南蛮具足が置かれている。これは、もう少しなんとかならないだろうか。せめて人型マネキンに着せるとかできないものか。そこがちょっと惜しい気がするが、ここは「織田信長資料館」ではなく、「安土城資料館」なのだ。だから、信長すら添え物というのであれば、それはまた正しい姿勢かもしれない。

初めて訪れた安土は、こじんまりとした地方都市だった。今では彦根や近江八幡のベッドタウン的位置付けにあるのだろうか。城巡りをするといつも思うことだが、お城とは戦国時代にはじけたウタカタの夢、その跡というのに一番ふさわしい場所だ。

駅前から安土城まで歩くと2-30分かかるようだが、次に来る時は戦国足軽の気分で歩いていくことにしよう。せんご

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