
安土城跡に初めて来た。織田信長好きとして一度は訪れてみるべき場所だとは思っていたが、やはり順番というものはある。信長の拠点が変遷した順番に、小牧城、岐阜城、安土城と信長のライフラインに沿って訪れるべきだろうという、変なこだわりだ。ちなみに清洲城は例外として残してある。

安土山に沿って地形を生かした作りの安土城は、城の入り口に手下武将の住居を配置し、強固な防衛線を構築していた。安土山の麓からみれば、重厚な縦深陣地そのものだ。その武将の家(実質上の防衛砦)の手前が琵琶湖に面する平地になっている。今ではすっかり田圃と畑になっているが、当時は琵琶湖の湖岸線となっていた。要するに巨大な天然の水堀のようなものだ。現代の地形から考えると誤解してしまうが、安土城は巨大な要塞という側面が強い。まさに、天下布武の象徴だろう。水際防衛が可能な交易と用兵の一大拠点だった。それも莫大な資金がなければ築城できない戦略立地だったはずだ。
安土山の隣にある山にも、織田氏後継者である信忠の城があり、親子二人で巨大山城群を押さえていたのだから、戦国期最大の防衛拠点だったはずだ。これに匹敵するのは、城内に門徒を居住者としてを抱え込んだ「石山本願寺」城砦群くらいだ。
全国に割拠する戦国大名勝ち組は、近隣諸国を攻めるのに忙しく、金も足りなかったのか、居城を大要塞化できたものは少ない。北条氏の小田原城は、関東一円の支配が叶ったからこそできた。武田も上杉も本拠地は意外と簡素な城しかない。
大きな城を作るには金がかかる。城作りは金持ち大名の道楽と言っても間違いない。周りの国とドンパチやっている最中は、兵士を雇い弾薬をそろえる方に資金が回る。
安土城を作った信長ですら、城造りに回す金は足りなかったようだ。安土転居前の岐阜城は、山の上にある優秀な防衛目的の城だったが、その規模は驚くほど小さい。小牧城は砦程度の小規模なものだった。やはり成り上がり・出世すごろく的に、成功すると城が大きくなる。
巨城といえば、徳川期に作られた徳川製大阪城、名古屋城、江戸城が挙げられる。この徳川城砦群を見慣れていると「城の規模感覚」がおかしくなる。戦国期の最終勝者だからできた大盤振る舞いだ。それも、金のかかる基礎工事は全て支配下に入った元・敵将に貢がせた物で、自分の懐は傷まず、相手の懐は大打撃という一石二鳥の大技だ。
そんなこともあり、現存する戦国期の城・城跡は意外と小ぶりだ。その中で安土城は飛び抜けて大きい。

この安土城の周りが、織田日本の首都になるはずだった場所だ。どうも信長は京都を都とするつもりはなかったようで、東西の要衝という点と琵琶湖水運を活用した軍事拠点として、安土城が織田日本の首府になるはずだったと思う。
その後、西国討伐が長引けば大阪城(石山本願寺跡地)に臨時首都が移る可能性もあったが、それもあくまで戦時限定拠点だっただろう。すでに瀬戸内海運を抑えるべく「堺」は調達済みだった。西日本を抑える拠点として、播磨(平清盛が福原に本拠を構えたように)に新首府を移したかもしれないが、その頃には信長も流石に寿命が残り少ないはずで。そうなったとしても、織田家本拠地はこの安土に残っただろう。

現在は門で閉じられた入り口だが、当時は安土城大手門までまっすぐ伸びていたらしい。最もすぐ手前が琵琶湖になっているのだから、安土城を攻めようとしても敵前上陸しなければ攻略のしようがない。陸路で攻めるには、信忠の抑える城の真下を通る必要がある。織田信長近衛軍は常備兵員数も十分で、最新兵器の鉄砲も武田を滅ぼした後は、溢れていたはずだ。おまけに安土山の裏側には織田軍専用軍港も持っていたのだから兵站を遮るのも難しい。この城を守りきれなかった信長の息子は本当にグズだったのか、手下がお馬鹿すぎたのかといいたくなる。

案内板がやたらと詳しいのは良いことだが、これを読んで理解するのは相当な「戦国知識」が必要で、その辺りは観光施設として見た場合、どんなものだろうかという気もする。

滋賀県と岐阜県で信長ゆかりの地の張り合い合戦みたいなものがあるのかという感じもしているが、愛知県はそれに参加していないようだ。尾張は城で持ついうが、名古屋城は家康直下の城だし、やはり江戸期は徳川に占有されていたためだろう。尾張が信長政権発祥の地とは今でも言いずらいのかもしれない。滋賀県でも有名な城は安土城ではなく彦根城だから、同じ県内でも「推し」武将が微妙にねじれているのかもしれない。岐阜県は信長推し一本で行けるところが強みだ。
彦根城が移る前の佐和山城は、石田三成の居城だったし、琵琶湖西岸の拠点であった坂本城は明智光秀の所領だった。琵琶湖周辺は、没落武将の消滅したお城がオンパレード状態で、その筆頭が安土城かもしれない。

JR「安土駅」にある安土城資料館では、お城の再現模型もあり、安土を学ぶには便利な場所だ。その話は別項で。