
城巡りをしていると、城址という言葉がぴったりとあう「城の跡」がある。古城跡とわざわざ言いたくなる風情があるからだ。ところが、それと異なりしっかりと整備もされて観光地化された「城」もある。国の記念物やお宝に指定されて、おそらく築城当時よりも賑やかしくなっている。
同じように、一ノ宮巡りをしていると、今でも地域最大の信仰拠点となり賑やかな「大きい神社」もあれば、昔の街道筋に建てられて今ではすっかりおとなしくなった「古宮」とでも言いたくなる神社もある。
この「若狭国一宮」は、まさしく典型的な古宮という感じがした。境内がただただ静かで、凛とした気に包まれている。参詣する者もほとんどいない。しかし、境内はきれいに整えられている。

これぞ古式ゆかしい神社だろうと思って境内に入って行ったら、おやまあ、なんとも今風の看板が見えてきた。パワスポ宣言だった。なるほど、これは……………確かに若い方向けの親切なご説明だが。

本殿に向かう道は実に清潔な神社の境内なので、なんだか「ぱわすぽ」とひらがなで書いてほしい感じがする。カタカナで「パワスポ」だと、だいぶ印象が違うと思うのは、個人的な感性の問題だろう。

門を抜けると拝殿がある。その背後にある本殿は、これまた当たり前だが、隠されていてよく見えない。

その拝殿の手前に、学習コーナー?が設置されていた。これは、神社巡りをしていて初めての経験だ。鳥居の手前あたりに、神社の由来やら祭神に関わる説明が置かれていることは多い。拝殿までの参道が長ければ、そこに境内の案内板があったりする。出雲大社のように拝殿・本殿に行く手前に、たくさん取り巻きの「お社」が置かれていることもある。
しかし、お参りする前に学習させる専用場所があるのは、すごいことだ。神様というより宮司の熱量が違うらしい。

千年杉が本殿脇にそびえていた。巨木という形容詞が似合っている。木も千年生きれば神様になるということで良いのだろう。巨木揃いの伊勢神宮でも樹齢千年という木を見た記憶がない。
これはなかなかすごいものを見せていただいた。

神仏習合が進んでいた江戸期には、衰退した神社も多かったようだが、明治になり国家神道が始まると、神社のランキング制度も整備され「古の神社」が軒並み復活した。その時の面影みたいなものが感じられる。
ヨーロッパや中東にある一神教の教会は石造りが多いので、百年単位で続く建造物だが、日本の神社は木造であり、建て替えが頻繁に起こる。遷宮は再生と復活の象徴みたいなもので、長く続くことに執着している風はない。潔さ、みたいなものが「神道」の本質の中にあるような気がする。
ただ、古くからある神社に対して「古びた」という形容をすることもない。「ふるい」ものと「新しい」ものが共存している世界が、神社の中にはあるのだと気付かされるのは、こうした「古くてきれいな神社」にお参りした時だ。宗教心とは少し異なる。原初からの「人に在らざるもの」を畏れ敬う気持ちとは、こういうことなのかもしれない。



日本海沿岸の古王国で敬われてきた祭神と出会う機会は、東国に住んでいるとなかなか少ない。だから、こんな西の場所にわざわざ来ることになるのだな。全国に「系列神社」を持つ大神ではなく、その地域限定で敬われる神様と会うのも貴重な体験だろうとは思うが、そこがパワスポ扱いになると、ちょっと微妙な気分になるのも確かだ。