
三重県の名城シリーズを一気に回ることにした。最初は「津城」だ。県庁がある津市では、築城名人といわれた藤堂氏による「津城」跡がある。場内はお決まりのように公園になり変わっている。広い堀と高い石垣だけが当時を偲ぶものだ。津城は典型的な平地に建てられた平城だが、それでも統治というより防衛のための拠点だったのだろうと思う。特に、堀の幅の広さが圧倒的だ。
城を見る時には、現在の市街地ではなく、当時の海岸線を想像して考えなければならないのだが、やはりこの地は伊勢湾に面した港湾都市であり貿易拠点だったのだろう。そこに睨みを効かせるには、港の近くに城が必要だったのではないか。
伊勢と尾張境界地で怒った長島一向一揆を収束させた後でも、伊勢北部は織田氏にとって物騒な地域だったはずで、その前線に反乱鎮圧拠点を作る必要があったということだろう。

2番目のお城は、松坂城だった。この城は戦国後期の築城らしい。平野部にぽこんと突き出た丘の上に建てられている。明らかに防衛拠点としての立地だ。敷地も広い。山の地形を生かした立体的な構造で、規模も大きい。やはり伊勢は反乱の地という認識だったのか。
ただ、江戸期には紀州藩直轄になったようで、これは西国からの侵攻路を塞ぐという意味合いもあったのではないか。福井から名古屋、津と南北に続く徳川・松平系城郭を西国一次防衛線と見ると、徳川政権が西国の反乱をどれほど危険視していたか推測できる。和歌山から津にかけて、徳川家支配にしたことで、紀伊半島周りの海路封鎖が可能になる。どれだけ西国を脅威に感じていたかがわかるが、それでも2世紀も経ってから西国動乱は起こった。いや、これだけ防衛戦略を立てていたから、2世紀持ったと考えればそれなりの意味がある。

松坂城を見て思うのが、やはり金持ちの殿様が作る城は立派になるという典型的な例だ。まず石垣の厚みが違う。また、丘の南北両面を使った立体構造というのも金がかかる作りだ。松坂は戦国後期から江戸初期にかけて商人の町として成長を始めたらしく、文化水準も高い「豪商都市」だったようだ。
戦乱は破壊しか生まないが、平和は文化を生む、という教訓が実現した場所だし、近江商人と並ぶ伊勢商人の拠点でもあったらしい。交易路は海路が中心だったので、今の東海道ベルトラインとは違う場所が栄えていた実例だろう。

石垣の厚みと高さは城の建設値段に直結する要素だ。大きな石を使えば移動に金も手間もかかる。そもそも大きな石は山の中にしかない。それを平地まで人力で持ってくる。金がかからないはずがない。石垣を作るのに小さな石だけでは防御の能力に限界がある。殿様が金持ちだったか、その辺りも城の見どころなのだ。松坂城は残っている石垣が多すぎて、丹念に見て回るととても時間がかかる。そのせいで、昼食に食べるはずだった松坂牛がコンビニランチに化けてしまった。残念至極、無念だ。

三つ目の城は、伊勢国南端部に残る田丸城だった。ここも松坂城と同じ平山城だった。ぽこんとした小さな山というか丘の上に建っていた。山の上に城跡を見に行こうとしたが、なんとそこは学校になっていた。今時のご時世で、平日昼間にノコノコとよそものオヤジが学校に入って行けば、間違いなく不審者、いや、犯罪者扱いされる。学校の正面玄関手前まで行って、引き返すことにした。
しかし、その学校に登る道も車はすれ違えないほど幅が狭い。注意して運転しないと脱輪しそうな道幅だった。やはり、伊勢国の道は軽自動車向きだとしみじみ思ってしまう。

石垣は、それなりに大きな石を使ったものだった。今は石垣の上に建造物がないから、単なる低い塀にしか見えないが、当時はこの上に矢間を備えた防御壁が立っていたはずだ。曲がりくねった石垣の間を通ろうとすると前後左右から矢を射かけられる。計算尽くされた構造なのだが、今では車で通るときに、大型車だと面倒な切り返しも必要になるクランク道路だ。時代によって道の意味も変わる。

城巡りをしていつも思うことだが、石垣の上に大きな木を植えるのはやめてもらいたいものだ。城跡を保護するというのであれば、公園としての植樹など勘弁してよというもので、もし木を植えるなら、その意味をきっちりと説明してほしい。史跡保護という観点で言えば、全国の城跡は、明治政府による暴政、城の破却政策の結果、原型をとどめていない。それが100年も続き、勝手に生えた木が大きく育ってしまい、まるで昔から城には木を植えていたような勘違い?が起きているのではないか。少なくとも殿様が本丸周りに居住していて、そこに庭園を作っていたという場合以外は、城の中に木を植える必然性はないはずだ。

三重県にある三名城は、それぞれ築城された時の目的や用途が違うので、規模も立地も異なる。それを日帰りで見比べることができる三重県民はなかなかの歴史遺産持ちだと、ちょっと羨ましくなる。
琵琶湖周辺と京都周辺は戦国期の大規模騒乱地区だったせいで、名城跡が多い。そこからちょっと離れた場所に残る城址も、畿内の政治闘争と関連で見てみるとなかなか面白い。歴史的な意味が築城の謂れにあるので、もう少し歴史のお勉強をしてからこの三名城を再訪してみたいものだ。