
織田氏の領国拡大初期に征服された伊勢国。その親玉だった北畠氏の居城跡に行ってきた。織田氏の伊勢侵攻は一向一揆と合わせて語られることが多い。ただ、伊勢国で言えば、北部にあった小豪族の里「伊賀」が忍者関連で話題になることも多く、伊勢国国主「北畠氏」の物語というのはあまり目にしない。
その北畠氏の拠点に行こうとして車を走らせていたら、どんどん山奥になっていく。なぜ、こんな山奥に拠点を置いたと言いたくなるほどだ。埼玉や群馬の山際にある山村地区と比べても、その秘境ぶり?は、群を抜いている。ただ、そこに至る3桁国道自体は相当に整備されていて、走りにくいほどでもない。
城跡周辺には道の駅もあったので、それなりの通行量があるということだ。

城は山の上にあったようで、麓には「北畠神社」があった。なかなか広い境内と、巨木があちこちにある由緒正しい神社のようだ。城巡りのついでにお参りしてきた。その境内の中に、一体の像があり、北畠氏をしのぶものだった。まさに中世武家貴族の代表的な姿に見える。

戦国初期に覇を競った旧守護大名は、ほとんど没落してしまった。室町幕府の中枢を占めた高級武家貴族も、戦国期を生き延びたものは極めて少ない。高級官僚ほど京都駐在が長く、領国経営を部下に任せたため、何台かすると乗っ取られたという室町幕府の政治構造が原因だったようだ。成り上がりで急成長したオーナー企業が、2代目3代目で従業員上がりの部下にのっとられるのと、全く同じ構造だ。人の愚かしさは1000年経っても変わらない。歴史に学ぶことはないダメ生物らしい。
北畠氏は織田に攻め滅ぼされ、織田に吸収され歴史から消えた。戦国期の没落守護一族の典型だろう。琵琶湖周辺で勢力を広げていた守護、守護代も皆織田に滅ぼされた。ほとんど一山いくら状態で消滅していった。北畠氏はその先頭だっただけだ。
しかし、尾張からこの伊勢の山奥まで攻めてくるとは想像を絶する。あの山道を何千人もの兵士が歩いてきたのだと思えば、気の遠くなりそうな大事業ではないかと改めて感心した。

戦国期に、互いに攻め合っていたことで戦闘技術や築城技術が一気に向上した。また火縄銃が取り入れられることで、戦略レベルの変化(いかに高価な鉄砲を買い揃えるかという経済力)と戦術レベルの変化(平地戦では鉄砲隊の数を揃えた一斉射撃、城の守備戦では防壁からの十字射撃など)が著しい。
この北畠氏の居城は、そうした時代の流れの中に飲み込まれた典型なのかもしれない。

中世最古の石垣とはこのことだろうかと、神社で見つけた石積みを眺めてみた。築城術に詳しいわけではないが、確かに石の積み方が素人目に見ても適当すぎる、というか洗練されていない。だいたい段差のある石積みだと、敵兵が簡単に登って上がれるわけで、防壁としての意味合いは低くなる。木で作った柵よりはマシという程度ではないか。
やはり戦闘術や築城術は実戦でその効果が証明されて、初めて普及するのだから(命懸けの検証だから当然だが)、この北畠式石垣が戦国標準にならなかったのは、一族滅亡という結果で検証された「ダメ出し」の証だったということか。朝早くの神社でそんな物騒なことを考えていた。

よく考えれば、伊勢国をめぐる戦いがあったのは、今から500年以上も昔のことで、その時に戦火で焼け野原?(はげ山?)にされた森もすっかり再生するだけの時間はあった。この樹齢50年、100年という大木を景色から消去してみれば、当時の北畠氏居城の有様が見えてくるのだが。
あまりに木が多すぎで想像力が追いつかない。




この後、伊賀に抜ける山道を走った。どうやらナビが古いせいで、旧道に迷い込んだらしく、ガードレールもない、すれ違うこともできない細い道を走る羽目になった。死にそうな気分だったし、後ろからダンプカーに圧迫された。(だいたいダンプカーのような大型車は通行禁止のはずだが、三重の山の中は無法地帯なのか)
散々な経験をしてようやく広い道に出たと思ったら、なんとダムの上流の道だった。ダムというのは交通の不便なところに、わざわざ建設用の道路を敷設して作るものだ。道なき場所に道を通して初めて出現する巨大建造物だ。その道なき場所のもっと奥を通ったのだから、危険で危ない道だとしても不思議ではない、というべきなのだろう。ただ、2度とあの道は通りたくない。
三重県山間部を走った教訓として、
① 山道では古いナビを使ってはいけない、特に最短距離モードは絶対不可
② 山道の3桁国道は信じてはいけない。できれば通ってはいけない
③ 国会議員に力がない県では山道は細いらしい (新潟県と長野県の山道を通った時の経験だが、県境から露骨に道幅や舗装状態が変わる)
次からの城巡りでは、できるだけ有料道路、高速道路を使って道幅の広いところを走ることに決めた。後は過去の国会議員をよく調べることにしよう。道路族であれば、多分安心だ。文科省とか環境省などと仲良しな議員は、道幅改善、安全安心道路の建設には役に立っていないはずだ。お城の保存には多少貢献するかもしれないが、お城を観光資源化するのであれば国交省の管轄だから、やはり道路改善はダメだろう。
人は体験からしか学べない。特に、ナビから危険度は学べない。一つ賢くなった気がする。しかし、この道は伊勢街道の本筋らしいので、昔の人はさぞかし大変だったのだろうなあ。