旅をする

伊賀上野城は忍者パーク

伊賀上野に初めて行った。この街は通り過ぎたこともないので、全く初見だった。街の真ん中にお城があるのは、なかなか珍しい。伊賀については忍者の里というくらいしか知識がないので、城の規模の大きさには驚いた。

駐車場に車を停め城の中に入っていくのだが、その入り口にいきなり「スーパーNINJA」アクションショーの掲示板がある。城よりも目立つ「忍術」推しだ。伊賀忍者は普段は何をしていたのだろう。全国に「忍びのもの」として散らばっていたにしても、いかにも怪しい。そもそも治世的に見ると、伊賀の地は完全な盆地だが平野部もそれなりに広い。せめて出るには大変だろうが、守る地として好都合だ。地方豪族が根拠地とするには十分な経済圏だったろう。それが「忍び」を出稼ぎ仕事に送らなければいけないほど貧困だったとすれば、何が原因だったのか。これは悩みどころだ。

案内図を見るとお城の周りに庭園が広がっているような雰囲気だが、これはあくまで平面図で、この地図を鵜呑みにしてはいけない。歩いてみるとわかるが、お城とは当然ながら防衛拠点として造られている。おまけに山城だから場内にもあちこちにアップダウンがあるはずだ。三重県山間部の恐怖ドライブをした後だけに、精神的にすっかりやられていて、元気に山登りをする気力は無くなっていた。そして、場内に入ると予想通り坂だらけだった。

歩きながら「芭蕉祭」の看板を見つけて思い出した。松尾芭蕉忍者説というものがある。世の中には面白いことを考える人がいるのだなと感心したお話で、芭蕉が俳句三昧でのんびり歩いた「奥の細道」旅程は、幕府隠密としてのスパイ旅行だったという話だ。
ただ、幕府のスパイであれば「新徳川」諸藩が多い東国ではなく、潜在的叛乱軍である西国をめぐるはずだろうと思う。少なくとも「西海道飲んだくれ旅」「肥前と薩摩を怪しむ旅」にならなければいけないので、どうにも怪しい。

お城公園の中は予想外に広く、そして予想通りアップダウンもあり、おまけに案内板を読み違い、あちこち迷ってしまった。その度に余計な階段を登ったり降りたりする。精神衛生上は甚だ問題ありな伊賀上野城内散歩になってしまった。ただ、坂道や階段を登ると本丸の姿が見えるのが救いだ。

石垣の高さ、厚み共に戦国以降の城郭の中でトップクラスの重厚さだが、それは幕府直轄統治だったせいだろう。徳川期の治世方針の表れだと思う。武威をもって民を圧する(他家を圧する)というものだが、戦国期を勝ち残り全国平定した直後であれば、武断政治は当然のことだろう。結果的にみると、下克上の風潮が消えるには100年近く時間が必要だったからだ。

伊賀上野城は戦国期築城術の完成形みたいなものなのだろうか。高知城を見た時も石垣の高さに驚いたが、やはり平地、あるいは低い丘程度で城を築く場合、最大の防御策は「高くて、登りにくい」城壁だったのだとわかる。
お金持ちの大名であれば、金沢城のように表面がすべすべに加工された石垣を作ることができる。江戸城は全ての石垣が、金をかけた平面仕上げになっている。多くの城では、荒く削って登りにくくした石積みで済ませているが、それでも防御効果は高い。城の造られた時代によって築城術、設計思想は異なるのだが、それを理解するには古い城、新しい城を見比べてみなければならない。
特に、石垣の質感であったり、積まれた石の大きさだったり(石が小さいと登りやすい)、城壁の角度などで登りやすいかどうか判断できる。おまけにかけた金も推察できる。この石の持つ重量感が写真ではよく理解できない。

復元された本丸は記念館になっていた

当たり前だが、リアルに勝る体験値はない。別に築城学を学ぶつもりもないが、復元された城よりも、長く残されてきた石垣の方が、歴史のリアルを感じられるものだ。ただし、お城によっては石垣も復元されていて、それが古く見えるだけという場合も多いので、勘違いしないことは大事だ。事前に予習しておかなければいけない「お城巡りアルアル」の一つで、何事も学ぶためには努力が必要なんだよね、という教訓。

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