旅をする

南宮大社と真清田神社

関ヶ原の近くにある南宮大社は、美濃国の一ノ宮だ。美濃国の一ノ宮としてはずいぶん西に偏った場所にあると思ったが、美濃国とは現在の岐阜県西部にあたる。岐阜県東部の山間地帯は、美濃国ではなく隣国である飛騨国なので、その分を割引して考えるべきだろう。
関ヶ原を抜けて畿内に至る旧来の街道筋にあたる場所だったから、現在の周辺都市の散らばり具合から見ると理解しにくいが、当時は交通要所にあったはずだ。全国にある一宮の大半が僻地にあると感じるのは、現在の交通網から考えるからで、当時は一宮が交通の要衝にあたる場所だったはずだ。
現在は、東海道新幹線や名神高速道路などが通っていいるため、昔の交通の要衝が分かりにくい。旧東海道や旧中山道などの大街道の跡地が寂れて見えるのは、明治以降に進んだ鉄道延伸とそれに伴う陸運の劇的変化のせいだ。当時の鉄道敷設は、城下町(都市部)を迂回して作られたバイパスというか本街道から離れた田舎道でしかなく、田んぼや畑の真ん中を突き抜けていた。(それは今の高速道路と同じだが)鉄道駅周辺が街の中心部に移行するまでは相当な時間がかかった。
ところが神社仏閣は鉄当駅近くに引っ越すこともないので、時が経つと街の真ん中から外れた場所になってしまう。この南宮大社も、そうした昔の拠点跡地立地の典型のようだ。ただ、オヤシロの周りにはびっしりと住宅が密集しているので、やはり門前町としては残っていたのかもしれない。

ちょうど七五三の時期にあたり、境内には子供(孫)を連れた家族がたくさんいた。これはなかなか和む光景で、正月の初詣に並ぶ「神社の賑やかさ」の象徴だと思う。
ただ、現代日本らしいなと感じるのが、七五三ファミリーの大半が大型のワンボックスカーで来ていることだ。完全な車社会になっている地方都市では、ファミリー外出用大型車+個人の専用移動手段としての軽自動車の組み合わせが徹底していることがわかる。境内の駐車場には軽自動車がほとんど見当たらなかった。ファミリーイベントには1ボックスカーで三世代が集合という現代日本の姿だ。大都会にいると、わかりにくい、平均的日本人の社会ということだろう。しかし、ベストセラーカーであるはずのセレナではなく、トヨタ系の大型車が多い気がした。やはり中京圏におけるトヨタの支配力がなせり技だろうか。
この神社に来るまで通ってきた生活道路では、すれ違う車両の7−8割が軽自動車だった。個人ライフは軽自動車で十分ということだろう。神社巡りをすると、日本経済がわかるなどと威張るつもりはないが、商業統計などではわからない地域社会と「人の暮らし」が見えてくるものだ。

神社巡りをするときには、拝殿の屋根の形に気をつける。神社の建造物に詳しいわけではないが、いわゆる天照系大和王朝スタイルと大国主系出雲王朝スタイルは、屋根の形が違う。この系統違いの神様を感じるのが、一宮を見るときにはポイントになる。大和王朝が周辺国を征服する過程で、自分達の神を押し付けないで地元の神を残した地域と、自分達の神で覆い尽くした地域がある。歴史の暗い部分が、社殿の形で現在に残されているというのは、なかなか興味深い。
ちなみに、関東圏から見ると美濃は西国のように感じるが、京都の東になるので歴史的には東国扱いだろう。ちなみ尾張(名古屋)の熱田神宮は日本武尊の東征時に立ち寄ったのだから、やはり東国で間違い無いだろう。
東国は、古代日本において基本的に被征服国家群であるせいか、国神が残されていないところが多い。だから祭神の確認も屋根の形と同様に、神社を見る上でポイントが高いところだ。

美濃国の隣、尾張国には一宮が二つある。一つは「大神神社」で、こちらはすでにお参り済みだった。住宅地の真ん中にあり、ナビを使うと神社の裏側に連れて行かれるというひどい目にあった。(古いナビは神社仏閣の位置指定が本当に酷すぎる)こちらの神社も、ナビのいう通り目的地に到着してみたら(神社敷地内にあるのだろうが)、なんと結婚式場だった。車のナビなのだから、神社の駐車場を第一優先に設定してほしい。ブツブツ………
などと文句を言いながら、駐車場探しをして神社の周りをほぼ二周した。その結果わかったのが、この神社は大通りに面しているが、周りはびっしりと住宅に囲まれた都市立地ということだ。昔からの交通の要衝、町の象徴としての位置が長い間変わっていない。その割に門前町というか土産物屋が少ないなという気がしたが、どうもコロナの間で休業したままの店が多いようだ。
確かに、コロナの時期に神頼みで神社詣をする人は少なかったのだろうな、と理解はできる。が、ちょっと寂しい。

門前にすごい物が立っていた。鎮座2650年とは、これまた凄まじい歴史だ。歴史に詳しい人はわかるだろうが、古事記や日本書紀に書かれている「神道国家」大和王朝の系譜でいくと、ほぼほぼ王朝樹立の最初期に開かれた神社ということになる。熱田神宮も日本武尊の東征時代からあったのだから、尾張国にはとても古い時代からいくつも神社があったということだ。伊勢志摩も含めて、尾張は大和王朝勃興期に、少なくとも対立関係ではなく同盟関係にあったということだろう。だから神社が置かれた時期がとてつもなく古い、ということを意味している。あちこちの一ノ宮をおとずれたが、 これだけの歴史があるところは初めてだ。

確かに、尾張国は天照大神の本拠地である伊勢神宮に近い。また、大和王朝の初期本拠地であった奈良盆地にも近い。当然、歴史的に大和王朝最初期から関わっていたことも確かだろう。京都は平城京から遷都してほぼ1000年の歴史を持っているが、その前は田舎町だった(たまに現在の京都周辺に「みやこ」が移った時期もあるが)。
その田舎町京都が開かれる1000年以上前から、この周辺は栄えていたということになる。愛知県一宮の皆さんは、もっと鼻を高くして威張っていても良いのでは、などと不遜なことを考えていた。
京都の一ノ宮は、平安京遷都時にともない政治的に、元の都、平城京にある大寺院や大神社を排除したこともあり、意外とこじんまりしている。それと比べると、この神社は昔の威容を残しているのだろう。宗教と政治は、いつの時代も密な関係なのだな。

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