
東海地方をめぐる名城旅で、取りこぼしていた長篠城に、ほぼ3年ぶりで辿り着いた。コロナの流行であちこちの公共施設、博物館や歴史に関わる記念館などは休業、受け入れ停止など厳しい対応が続いていた。流行波の間でも、開けたり閉めたり対応はバラバラで、一筆描きのようなコースを決めて一気に城をめぐるということが、事実上できなくなっていた。
疫病退散を願いお参りに行くにして、神社仏閣では御朱印の受付をしないところが多くなった。書き置きしたしたものを配布する形に変わっていた。そのうち祈祷がリモートになる時代が来るのかもしれないが、現代日本を守護している八百万の神様たちにデジタル適応をお願いしても良いものか、甚だ疑念が残る。天竺由来のお釈迦様だと、空の上からデジタルな糸を垂らしてくれるかもしれない。ただ、少なくとも閻魔大王は直接面談を諦めそうにない気がするが。
城巡りの間に、あれこれと妄想してしまった。

長篠城記念館が建っているところは、城の内堀脇に当たる場所で、目の前には堀の跡と広場が広がっている。この広場に本丸を含めた城の建造物が建っていたのだろう。
城址というものは、その場で昔の姿を想像してみないといけない、想像力が要求されるゲームだ。城址に行って今の姿を見れば、そこは芝生を植えてある公園だったり、散策用の道が広がる庭園だったりする。しかし、当時は戦闘施設であり無駄のない合理的空間だったはずだ。防御施設であるから、防衛目的で建物が配置されていた。それを、現存する石垣や地割りなどから想像するのが楽しい。

堀の跡も、一見すると水もなくなり雑草や樹木が生えている。しかし、当時は身を隠したり登る時の手がかりになる「木」や「草」を放置したはずがない。石垣ではない堀の壁は、滑りやすい粘土で覆われていたはずだ。そもそも、城の周りは全ての樹木を伐採して禿山にしていなければ、夜襲の時など隠れ場所を放置することになる。そんなことをするおバカ武将は戦国期を生き延びられるはずがない。いま現在で見る公園とその樹木を、全て取り払った姿を脳内CG?で再現する。それが城巡りの楽しみというか必要能力だ。

戦国期に建てられた城のほとんどは、徳川の治世になると廃城になっている。わざわざ城を壊した場合もあるが、大半の城は戦闘状態に備える必要がなくなり、朽ちて無くなるままになった。勝ち組の徳川支配下の城のいくつかは、あきらかに占領政策の道具として、あるいは権威誇示と居城目的で立派なものに建て替えられた。防衛施設から治世の象徴への転換だ。
しかし、負け組の城は破却されたものがほとんどだ。大阪城のように、豊臣氏製の城をわざわざ埋め戻し、その上に徳川版大阪城を再建したのは、豊臣家の滅亡を強く印象付けるための「占領政策」だったに違いない。
安土城のように織田氏が滅亡した後は寺院になったり、豊臣ゆかりの城は放置され消滅したりで、負けてしまえばただのゴミ山となった城も多い。巨大土木建造物が、治世者の権威を示す時代は戦国期と共に終わったのだろう。唯一の例外は日光東照宮くらいか。
ただ、江戸期になると関東以西の山で、巨木は既に切り倒し尽くされ、神社仏閣あるいは城などの巨大建造物は材料不足で建造できな区なっていたらしい。江戸城を作るためには、関東以北の木が使われたようだが、それで日本の巨木は在庫一掃されてしまったようだ。
樹齢何百年という立派な木が残っているのは、もはや古から続く神社の境内くらいだろう。流石に徳川家でも、その手の木はおそらく御神木だから畏れ多くて伐採もできない。
長篠城も歴史的役目を終えると、建造物はなくなり静かな場所になったようだ。あちこちで行われた復元城を建造するという話もないようでで、昔を偲ぶものは堀と石垣だけだ。
ここは三河・遠江と甲斐の衝突地点に当たり、徳川と武田の死闘が繰り広げられた場所だが、今は静かな地方都市で、昔の戦争など思い出すこともない「戦国 夢の跡」というにふさわしい。