
伊勢国の一宮は伊勢神宮だろうと思い込んでいた。だが、この椿大神社が伊勢国一宮であり、もう一つ同じ名前を持つ(つばき)都波岐神社がある。二つの一宮は山の神と海の神のような補完関係にあるようだ。古代日本で、大和政権中枢がある奈良盆地に東国から入る街道は、鈴鹿を抜けて山越えだった。現在の国道1号線と同じルートだろう。山間を抜ける道には、昔も今も差がありはしない。だから、この椿大神社の位置は首府に入る手前の交通及び防衛の要衝だったはずだ。また、伊勢湾を海路で渡るルートもあったはずで、それの抑えの場所が都波岐神社あたりの海沿いにあったのだろうと推測してみた。だから一ノ宮が二つあるのかもしれない。
ちなみに伊勢神宮は通称で、正式名称は「神宮」なのだそうだ。つまり、日本の神社の大元締めであり総本山みたいなもので、伊勢国を代表する神社というより大和朝廷率いる古代国家の中心という意味合いを持つということだろう。

そんなことを考えながら駐車場から参道を歩いていた。全国に散らばる一ノ宮でも有数の規模だなと思う。山の中に祀られている神社は、規模が大きいものが多い。山全体を神域とするほどでは無いが、少なくとも麓から登って行ったあたりは全域が神社の敷地になっている。
その大規模神社の中でも、椿大神社は一際おおきい。奈良にある大神神社より広いかもしれない。

ちょうど秋の祭礼の時期だったようで、参道周りには燈明というか明かりが並べられていた。古代から続くライトイルミネーションみたいなものだろう。現代ではほのかに感じる明かりも、昔はさぞかし眩いものに思えたのではないか。闇を照らす灯りとは、神がもたらす平和と安寧の象徴のような意味合いを持っていた、そんな気がする。

拝殿正面を見ると、やはり日本海沿岸の海神系統神社とは様式が異なるようだ。古代ヤマト王朝の統一様式みたいなものだろうか。巴の印は初めてみた。やはり神道本家筋である伊勢国では、神社巡りをしていても、いろいろと初めてに巡り合うことが多い。

帰り際になると山道に明かりが入っていた。もう少し遅い時間であれば、さぞかし幻想的な光景になるのだろう。明かりには寄進した方の名前が入るようだが、やはり皆さん願うのは、家内安全に商売繁盛らしい。これも古代から変わらぬ願いだろう。

お参りが終わって帰り際に気がついたが、神社の入り口までバスが来ている。これも一宮巡りでは初めての経験だ。定期バスが運行するほど参詣者が多いということもすごいことだが、観光客向けというよりは。バスを通わせるほど「神社」に詣でる地元民が多いということだろう。観光客的な参詣対応であれば、駐車場を整備すれば足りることだ。やはり伊勢国は「神道の国」なのだろう。

都波岐神社は、海岸に近い場所の住宅地の真ん中にあった。というより神社の周りに住宅が密集したという感じだろうか。道幅も狭く、車がすれ違うのも難しいような、生活道路というより抜け道と言いたいくらい狭い道だった。
確かに一宮は古くからある神社ばかりなので、神社周りはどこもみな同様に狭い道、通り抜けが難しい道に囲まれている。代々続く、そして長年暮らす人には、すっかり慣れ親しんだ道で格別問題も感じないのだろう。
ナビに誘導されて神社に向かうときにいつも思うことだが、一生に一度の参詣者としては、神社周りで駐車場を探しさまようことが多い。いやほとんど迷う。ヘタをすると15分程度は彷徨することが多い。この日も、駐車場探しで朝から時間がとられた。結局、見つけた駐車場は社務所の裏側だった。

一宮が複数箇所ある国は、おそらく古代日本において複数勢力が対抗していた地域、國だったのだと思う。例えば海側の民と山側の民のような、居住地の違い、つまり生計の立てる手段の違いは、地域差別を生む大きな意味合いがあったのだろう。漁師は海での安全と大漁を願う。山での暮らしは、穏やかな天候を望み、台風や旱魃などの被害を嫌うだろう。当然、漁民と農民とではお祭りする神様も違う。そんな太古の暮らしに想いを馳せるのも神社巡りの楽しみだ。

こちらの神社は、なんと見るからに現代建築で、一見するとあちこちによくある都市型の寺のようにも見える。神社のありようも、時代に合わせて変わるものだなと感じた。東京赤坂の日枝神社を見たときに思った「都市型神社」という言葉が脳裏に蘇った。同じ一ノ宮でも、ところによっては古代から続いているような巨大木造建築もあれば、コンクリート製現代建築もある。色々と違ってくるものだ。
神社の地域差を痛感したのは、次に回った志摩国一ノ宮を訪れた時のことだ。