
東京のシンボルタワーというより、東京東部、下町地区の象徴という気がするスカイツリーだ。東京駅から東側を歩いていると、アレっと思うようなところからスカイツリーの姿が見える。
鶯谷の駅から歩き始めてふと見上げた先にスカイツリーがあった。スカイツリーが完成してから随分と時間が経った。おやまあ、というか、また会いましたね的な親しみも感じるようになった。街の光景に馴染んできたという感じがする。

JR鶯谷から歩いて10分もかからない、表通りから引っ込んだ住宅街の一角にある老舗の居酒屋で、友人と待ち合わせをした。住所は根岸なので、実に下町界隈に出没した感じがする。そもそも鶯谷の駅で降りたのは、これが初めてかもしれない。浅草からぶらぶら歩いて入谷を過ぎ日暮里まで歩いた記憶はあるが、鶯谷周辺には近付いていなかった。東京にぽっかり空いた未踏地区の冒険に出たような気がする。
山手線の内側を湯島から日暮里まで歩いたこともあるから、やはり鶯谷駅周辺だけ足を踏み入れたことないまま、謎の空白地帯になっていたようだ。

今風の無国籍な料理が並ぶチェーン居酒屋とは全く趣が異なる、シンプルなメニューだった。かまぼことかたたみ鰯とか、時代劇に出てきそうな食べ物が並ぶ。まさに池波正太郎的グルメ世界なのだ。というよりストイックな美食空間とでも呼びたい。
池波正太郎が今でも生きていたら、江戸風物の古典料理以外にエスニック料理や昆虫食まで手を広げていたとは思う。知性の高いグルメ探求者は、知的探訪というか興味本位で悪食になるはずだからだ。オムライスを楽しんだ翌日には、タイ飯でグリーンチリとココナッツミルクにした図済みを打つような暮らしは悪くない。池波正太郎氏にはナンプラーとニョクニャムの違いを熱く語ってもらいたいものだ。
ただ、そうした現代版拡張グルメを楽しんだ後は、やはりこの店のような古典的居酒屋で休憩するのではないかと思う。新と旧を取り混ぜ、伝統と新進気鋭を気ままに楽しむのが、正しい食い道楽のお作法であるとも思う。

最初に出てきたのはお通しというより突き出しという感がある、シンプルな「煮豆」だ。ちょうど10粒あるなと思ったが、これはひょっとするときっちり数を揃えて出しているのだろうか。そうかもしれない。ありそうな話だ、と豆をつまみながら思った。味付けはほんのりというかほとんど味がしない。ただ豆を食べたという充足感がする。

鳥もつ焼は、一人一本ずつに分けて出してくれた。一皿に盛り付けて勝手にシェアしてねという一般的な居酒屋とは一味違う心遣いなのだが、それを堪能するのは客側にもそれなりの素養というか、理解度の高さが必要だ。
ここしばらくの我が生活を振り返ってみると、コロナで在宅時間が伸び、テレビ視聴時間が増えたせいで、旅番組(過去放送したもの)と酒番組には詳しくなった。その影響で熱燗を飲むようになったのだが、確かに燗酒には冷酒とは違う旨さがあるなと感じるようになった。どうやら基礎代謝量が減ったせいで、色々と味覚にも変化が起きているようだ。まあ、普通はこれを老化と呼ぶ。ジジイ好みの味に傾いてきたというだけの話だ。だから伝統的な居酒屋、ほとんど会話が聞こえてこないような静かな店がありがたい。居心地が良い。
白鷹の熱燗で湯豆腐を食う的な池波正太郎世界が目の前に広がっているなあ。ちなみに、都内で白鷹を飲める店は本当に少ないのだよね。池波正太郎の世界で、日本酒の銘柄に言及していたかは全く思い出せないのだけれど。