
一乗谷といえば、戦国期に花開いた徒花というか、北陸入り口の強豪「朝倉氏」の居住地であり、滅びた場所だ。地図で見るとわかりやすいが、福井平野から山の中に向かってしばらく行ったところで、川沿いにひらけている南北を山に閉ざされた狭隘な土地だ。
一乗谷の名の通り谷が開けた場所であり、右も左も山に囲まれている。防衛拠点としては、西側である川下方面だけ考えれば良いので(山越えをしようにも、山の広がりが南北に深い)、優れた場所だろう。実際の核として、城は南側の山上に建てられていたから、備えは万全ということだった。
それでも、織田氏との北陸戦争で負けた後は、焼き払われ廃墟と化した。その遺構が発掘されて再現されているのをテレビ番組で見て、これは一度行ってみなければと思っていた。滅んだ文明?には、なぜか好奇心を煽られる。

当時の街並みを再現している施設があった。その街並みで土塀沿いの道を歩く。門をくぐると武家屋敷があった。当時の様子を再現している。
石垣の上に土塀を作っているのは都市防衛戦を意識したものかなと思った。しかし考え直した。おそらくこれは戦争ではなく、当時はやたら存在した野盗、つまり傭兵としての足軽予備軍みたいな悪党集団との戦闘を意識しているのだろう。

再現された武家屋敷を見ると、思っていた以上に狭い。2k+sみたいな間取りだった。居室と寝室の外に小さな茶室が一つ。キッチンは土間で、カマドが大きい。あかりとりの窓はない。障子が大きく開放的で、日中は明るい部屋のようだが、冬は寒そうな作りだった。
三畳の茶室が一番日当たりの良い場所にあるというのが、当時の一乗谷文化は高いレベルにあったことを表している。

しかし、一番文化的にレベルが高いと思ったのは、戸外にあるトイレだった。扉はないが展示よのためだろうか。実際にはムシロくらいはしきりに使っていたのではとも思う。あるいは、トイレで尻を出していても恥ずかしくない風俗だったのか。

土塀の外は、全部に武家屋敷が再現されているわけではない。野原のまま放置されているが、当時の区画や井戸(給水口)の跡がわかる。山際まで街が広がっているように見えるが、戦国時代から江戸時代は、里山がほぼ禿山になっていた。燃料として、伐採できるかぎり山の木は刈られていたので、当時の一乗谷は意外と解放感がある谷間だったのかもしれない。

この発掘され再現された場所を見ると、一乗谷の城下町は町割計画に沿って作られた人工的な都市で、おまけに給水網もあるのだから、明らかに当時の京都を越えるレベルではなかったか。応仁の乱から逃げ出してきた公家や坊主たちが、一乗谷に持ち込んだ文化の高さと相まって、この地は地方権力者の居住地というレベルを超える繁栄ぶりだったのだろう。

それにしても感心するのは、ここまでの大規模都市が数百年に渡り、田んぼや畑の下に埋もれていたということだ。織田軍により朝倉氏が滅亡し、町が焼き払われた後、誰も住もうとしなかったということだ。
確かに織田氏による朝倉氏殲滅以降、戦国期は急速に終わりに近づく。江戸期に入り戦争がなくなれば、山間部にこもっている必要もない。交通の便が良い平野部に街を築いた方が良いのは明らかだ。一乗谷は滅びたまま静かに400年近く埋もれていたと思えばなかなか感慨深い。

武家屋敷の他に民家というか商家も復活再現していた。これは、武家屋敷と違い小さな窓があるだけのワンルームなので、中は相当に暗い。昼でも作業ができるのかと思うほどだ。あんなに暗い中で作業をしていたのだろうか。戦国期の人間は、暗闇特化型の視力を持っていたとも思えないのだが。それとも猫族のような夜向け視力があったのか。

商家の跡は、専業店舗と専業工場ができるくらい分業が進んでいた文化都市の証として考えられる。ただ、この家で冬を越すのは考えたくもない。毎年冬が来るたびに、死人が出そうなくらい寒そうな家だ。寒さは人を殺す。それに耐える生活は勘弁してほしい。本当にどうやって冬を越したのだろう。

そして最後に発見したこのアニキャラパネルが、一乗谷の異世界感をマックスにしてくれた。うーん、これはご当地キャラでもなく、町おこしキャラでもなく、聖地巡礼向けキャラなのだろう。
ただ、あちこちのお城にいる違和感を感じる武将キャラと比べても、このキャラと朝倉遺構とのギャップはありすぎのような気がする。
歴史遺跡でギャップ萌えというものがあるのかどうかはわからないが、福井市の関係者の方々には展示場所の再考を願いたいものだなあ。せめて武将キャラ、朝倉義景くんあたりで勘弁してほしい。
