
先輩に誘われて夜の神楽坂に出動した。この歳になっても先輩は先輩であり、ましてやこの業界での至宝というべき生き字引き的存在のお二方なので、最大の敬意を払いつつお話を聞きに行く。そんな時に業界の先立としていつも感心するのが、「良いお店」を選択されることだ。
今回も神楽坂の奥まったところにある蕎麦屋を指定され、のこのこと出かけたみたら、これはもはや蕎麦割烹とでもいうべき高級店だった。
店名でわかる通り福井の料理を出す店で、懐石ルールにならったコース料理という感じだった。お店に来るまでは、下町的蕎麦屋で天抜きを肴にして蒲鉾と卵焼きで日本酒を冷できゅうっとね、などと思っていたのだが、良い意味でまるっきり予想と違っていた。ちなみに下町の蕎麦屋も高級化しているところは多い。自分のイメージにある蕎麦屋できゅっと飲むスタイルは、神田のまつやとか浅草並木の藪みたいなところなのだが。




日本食の本質は見た目ではないかと最近思うようになってきた。だしと醤油、味噌という和食調味料基本セットでは、一定幅以上に味の領域は広がらないのではないかと思うからだ。一部の発酵調味料を取り入れた地方料理もあるが、あくまで地方で愛されるレベルに留まっている。
昭和の時代に地方発信で全国区に成り上がった「味」は、豚骨ラーメンの豚骨スープくらいではないだろうか。江戸後期から明治初期に広がった肉食(牛肉)ほどのインパクトをもたらす「味」は、その後の1世紀では見当たらない。食文化という意味であればチキンラーメン・カップヌードルに代表される「インスタント麺」は昭和の食文化大革命だと思うが、味という点で言えば少し違う気がする。あえて言えば、グルタミン酸ソーダ(化学調味料)が及ぼした影響は世界的だったが、これが味の変革かというとちょっと違う気がする。
和食がフレンチに与えた影響はビンジュアル要素が強かった。同じようにイタリアンの影響でバルサミコ酢やオリーブオイルが和食に取り込まれていけば、一皮剥けた和食が産まれそうな気がする。古典的フレンチのバター、チーズをたっぷり使った濃厚味は取り込みにずっと時間がかかりそうだ。
残念ながらアメリカンなハンバーガーとコカコーラみたいな取り合わせは、和食とは相性が悪そうだ。アメリカン和食も食べてみたい気はするが、せいぜいアボカド巻くらいで満足しておくべきだろう。

日本以外の国の人たちから見れば、出汁の中に「野菜の根」をすりつぶして投入したものということになるのかもしれないが、おろし餡はいつ食べても美味いと思う。これは調理人の技術で味の差が雲泥ほどに出てくる和食の華ではないかとまで思う。
チェーン居酒屋の悪いところは、こういう技術の必要な料理をなんちゃって再現(再現度は最低最悪なまま)して売り出すことなんだよな。などと考えながら食べていた。
ちょうど話題がチェーン居酒屋衰亡論だったせいもある。

お腹いっぱいになりそろそろ帰ろうかなと思うタイミングで、締めの越前そばが出てきた。これも蕎麦というより蕎麦料理だろう、と変なセルフツッコミを入れながら一口食べてすっかりありがたくなってしまった。
よくしまった蕎麦と大根おろしとの調和、これはまさしくすすって手繰る蕎麦ではなく、素材の特性を生かした一品の料理だった。
神楽坂の蕎麦屋は奥が深い。蕎麦屋と侮ってはいけない。参りました。全部うまかったです。