
入り口から中に入ると、お寺の正式ゲートが見えてくる。普通にお寺にお参りに行くと、門の上にかかっている額には〇〇山〇〇寺とかいてあるものだが、こちらは霊場恐山という、なにやらありがたげな、恐ろしげな額になっている。
この場所は普通と違うという雰囲気が大量に噴き出してくるような………

入るとすぐに気がつくのが硫黄の匂いだった。入って左側には荒地が広がる。あちこちから蒸気が漏れ出している。初めてここにきた方が、ここは尋常ではないと思ったそうだが、確かに誰でもそう思う。温泉地でたまに見かける地獄の湯みたいなあぶくぶつぶつな場所は、行ってみればお化け屋敷のアトラクション的な明るさがある。名前に地獄とつけても、「あー、なるどど。確かに地獄っぽいね。」と笑って話せる気楽さがある。
ところが、この場所では、声を出すのも控えた方が良いのではと思わせる重みがあった。中に入ったらいきなり日差しが陰って曇ってきたせいかもしれない。霊場でお天気の演出効果はいらないなあ。

その荒涼たる場所の入り口にお堂が建てられていて、ここでまずお参りをしてから荒地巡りをするようになっている。あれこれとお地蔵様にお願い事をしてしまったが、お寺は人を救済してくれる場所で、自己解決を迫ったりしない優しい仏様がいる場所だ。
他の宗教では「我を信じるなら契約をせよ。」と強面で迫る一神教の神とか、「功徳が欲しければ、貢物をせい。」などと手下であるはずの人間に脅しをかける多神教の神もいる。
解脱を目指したゴーダマ・シッタルダの知的子孫たちが作り上げてきた宗教体系では、救済の思想が他宗教と質的に違う。日本人的に言えば、下々に優しい仏様ということになる。恐山は、その優しい仏様の中でもおそらく最強に優しい地蔵尊が祀られているので、あれこれお願いしても聞き入れてくれるだろう。お願いだけでは失礼だろうと、般若心経を唱えてお参りを終えた。

確かに、この岩と小石でできた荒地は、見る人が見れば地獄の光景、賽の河原のように思えるかもしれない。全体に立ち込める硫黄の匂いが余計に荒涼感を強めている。

その白と黒で区切られたモノトーン世界に、赤い風車が置かれている。1箇所だけではなくあちこちに風車がある。この赤にはどんな意味が込められているのだろうか。全く不勉強なので、何もわからなかったのだが、おそらく宗教的な意味合いがあるはずだ。カラカラと回る風車は輪廻天性を表す、などといわれると「なるほど、そうだろうなあ」と思ってしまう。


この荒地を進み低い頂を越えると、その先には湖が見えてくる。湖のほとりにお堂が立っているのが見えた。信心深い人であれば、おそらく、そこまで降りてお参りしてくるのだろう。降りて行った後の帰り道、登りを考えると降りていく気にならなかった。不信心ものと言われても仕方がない。お地蔵様だから許してくれるよね、と心の中で言い訳した。
それでも、この荒地の中をあっちに行ったり、こっちに行ったりして30分以上うろうろしていた。5分もいれば、あたりの光景に慣れてしまう。それほど同じ景色なのだが、なぜか立ち去り難く………
周りにいた参拝客が誰もいなくなるほどだから、ずいぶん長くいたようだ。もっとここにいろ、というお告げだったのかもしれない。後になってそんなことを思った。恐山には何もない。