
最近のヒットゲームでゲームとラノベのお作法を比べてみる。FF15の主人公チーム・キャラ4人プレイとDEATH STRANDINGのソロ配達人が、典型的な物語づくりの対比になる。FF15は「スタンドバイミー」のオマージュのような気もするし、DEATH STRANDINGは「ポストマン」 D プリン作のオマージュだと思う。
典型的なグループ旅物の体裁を取るのがFF15で、ゲームの全体構造もストーリーも古典的英雄譚の形を忠実にまもっている。女性キャラが登場しないのが、いささか定石から変わっているくらいのものだ。
DEATH STRANDINGは、旅物の定石を破り、最後まで一人旅だ。手助けする仲間も、同行してくれる魔物もいない。襲ってくるミュータントや化け物はいるが、それも倒さなければならないことは稀で、戦わずに逃げても物語は進む。
この一人旅がラノベ(活字)になったとしてヒット作品になったかというと、これはかなり怪しい。ラノベ→ゲームは成立しても、ゲーム→ラノベは難しいという例だ。やはり現代のエンタメ産業としてのゴールデンルールは、
ラノベ(webテキスト)→ラノベ(出版)→コミカライズ(出版)→アニメ(動画放送・配信)→ゲーム(スマホ・専用機量対応)→インスパイア系ラノベ(web)ということなのだろう。
そのエンタメ・サイクルの出発点であるラノベweb版で重要視されるのが、ともかくクリックしてもらうことだ。そのための手段が題名・タイトルで興味を惹くことであり、題名のあらすじ化・長文化現象が起きる原因となる。
そういった意味を合わせてラノベ作品「村人ですが 何か?」を考えてみる。(ようやく本論に戻ってきた)主人公は転生者であり、本来は(お話の決め事としては)何らかの超常的な優位技術を持っているはずだ。しかし、題名にある通り「村人」として転生する。村人とはRPGゲームでは、いわゆる何の能力もない最低レベルの「ヒト族」という設定で、主人公の問いに一言、二言答えるだけの存在だ。だから、主人公の同行キャラになることなどゲームの都合上ありえない。
ところが、この物語では主人公が、その最低レベルの「ヒト族」の弱者で、守るべき幼馴染が「勇者」という設定だ。世界を守る役割を持った強者を最弱キャラが守るという掟破りな話になっている。まずこの時点で、英雄譚の鉄板定石が壊れている。
題名の意味することは、主人公の設定がキャラとして最低レベルで冒険になど全く向いていない、それに何か文句あるの?という読者に挑戦的な意思表明だ。(ちなみに、手元にあるラノベの最長題名は31文字だった。昔の原稿用紙でいえば2行分に当たる)
そして長文化した題名は、わかりやすさを考えると口語体になる、ならざるを得ない。漢字や熟語を題名に多用することの意味は、形容を抽象化し圧縮するためにある。そもそも論で言えば、より少ない単語で題名を作りあげることの意味はその意味の圧縮性にある。だから小説を全部読み終わって、初めて題名の意味がわかることが多い。(それが小説読みの楽しみとも言える)
ところが、ラノベの題名は抽象化が必要ないからか長文でも問題がない。そして、読者に話しかけるような会話文にしても問題ない。逆に会話形式の方がわかりやすくなるとも言える。「ミケの旅」と書くと、ミケという人だか猫だかわからないものが、どんな時代のどこの国を歩き回るのかわからないし、旅の目的も想像できない。ともかく何かがあちこちに放浪するお話なのだろうか、と理解というか推測をするだけだ。
ところが「精霊使いの美少女ネコが、エルフの国からドワーフの街に追放されてジジイに復讐を誓う件」と書かれていれば、主人公ネコは名前であって、おそらく種族はエルフであり、ドワーフの街に追放されるのだから、エルフとドワーフは少なくとも敵対関係で、ネコはエルフ種族の年寄りな男性の誰か、つまり族長と長老とかいう年寄り連中に仕返ししたいのだな、くらいは予想できる。
小説Webサイトにずらりと並ぶタイトルリストから、ぽちっとクリックさせるために生み出された戦術と言われれば納得できる。
【続く】