
何だか、今年もあっという間に桜の季節が終わってしまった。それでも、何度かは満開の桜を見ることができた。桜を見るたびに竹内マリアの曲を思い出す。二十代、三十代と年を重ね人生の楽しみ方が変わるという曲だが、その中に「あと何回桜を見ることができるだろう」みたいなフレーズがある。
これは日本人特有の感性だなと、初めて聞いた時に感じた物だが、欧米人であれば年を重ねる象徴に何を引用するのかと思ったからだ。アメリカ人であればクリスマスやサンクスギビングなどに年齢を重ねるイベント感があるのだろうか。

今はスマホのカメラがすっかり高性能化したので、わざわざ桜の写真を撮るために一眼レフカメラを持ち出すことも無くなった。ほんの数年前までは、春になると一眼を抱えてあちこちに桜の写真を撮りに行ったが、今年はとうとう諦めてしまった。コロナの重圧に負けたわけではない。去年も一昨年も桜撮影はしていた。
ただ、もう桜を見たついでにスマホでパチリで十分な気がしている。一眼を担いで歩き回るのが面倒な年になったのか、それとも写真はスマホで十分という当世風な感覚に若返ったのか。どちらなのだろう、自分でもよくわからない。

スマホで光量調節もせずに夜景が撮れるということは、それ自体びっくりするほどの技術革新だと思う。が、それも当たり前になってしまえば、小学生がとった写真とプロの写真家の腕前の差は、一体どこに出るのだろう。そもそも画角とか露出みたいなテクニック話で言えば、今や撮影後に写真データを切り抜いたり編集するのは当たり前なので、プロの腕前と素人との差が縮まっている気がする。
ちなみにフィルム写真時代に夜桜を上手に撮るのは、とてつもなく技術が必要だった。今や、スマホで画面を覗いてパシャッでおしまい。良い写真を紙焼きにしてみるか、画面で見るかという違いの方が大事だろう。

近くの小学校の正門前に大きな桜の木が立っている。タイミングが合えば、満開の桜で入学式ということもあるのだろうが、ここ数年は4月になると葉桜になっていることが多い。今年も、入学式には全部散っていそうだ。

花見をする時、桜は見上げる物だと思っていたが、今年は桜を見下ろす場所を発見した。見下ろす桜というのも、これはこれで綺麗な物だなと気がついた。まだあと何年かは、こうして「新しい桜」を楽しむことができるのだろうか。竹内マリアが歌う楽曲の中では100歳くらいまで生きていくことになっているのだが。