書評・映像評

ラノベのあれこれを考えてみた #1 SFの孫

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最近は大規模本屋がどんどん潰れてしまい、一時期、自宅のある町では大きな本屋が壊滅した。仕事先である恵比寿や通勤途上にある新宿などで大きな本屋を使えば良いので、仕方がないと諦めていたが、ようやく駅前再開発で地元に大きな本屋が開店した。専門書なども多少は置いてある。が、小説は少なく昔の本屋の面影はない。
それにもまして、自宅周りの本屋に行くと一番売り場が大きいのはコミックで、これが売り場の半分くらい。残りの1/3が雑誌で、文庫本をあわせても小説売り場の半分はラノベになっている。一般書籍では文庫本が少し頑張っているが、いわゆる単行本になると児童向け書籍の棚より小さい。
今や、エンタメとしての活字の主流はラノベで、コミックという画像付き物語と市場を分け合っているのが実情だ。当然ながらベストセラーも直木賞受賞作ではなく、アニメとコラボしたラノベ原作という時代だ。
そもそも全世代で活字を読むという習慣が減っているのは間違いないが、テレビの視聴がYouTubeに置き換えられているように、視聴する媒体が変わったということではない。
つまり「紙の本」が「電子ブック」に変わったのではなく、「本」=「活字」を読む人が純減しただけだ。そして、数少なくなった「活字読み愛好者」は、ジャンルとしてのラノベに集中しているということだろう。活字印刷物はすで死にゆくメディアになった。そして、ラノベが活字世界の最後の砦になっている。
一般的なジャンル小説としては、高齢な読書耽溺層が支える一部の時代小説が堅調なくらいで、推理小説の数少ない人気作家を除けば壊滅状態かなと思う。学生時代から個人的好みで読み続けるSFも、すでにマイナー分野のようだ。まともにSF本を売っているのは、新宿紀伊國屋本店くらいだと思う。他の大規模書店では、もはやSFも滅亡寸前と言って間違いない。生き残ったSF者は、わずかにAmazonに救いを求めるしかない。


「お話」の好みは時代によって変わっていくものだから仕方がないことだが、空想科学小説と言われていたジャンルがSFとなり社会的に認知されたのが1970年代だった。その時代のSFは映画化、アニメ化を含め映像化されたものが多い。そしてそのSFの直系後継者がラノベなのではないかなと思っている。
ラノベはSFが基本設定としていた「この世ではない別の世界」を舞台にお話を展開するというやり方を(意識してか無意識なのかは定かではないが)、ストレートに踏襲、引き継いでいる。ジャンル小説としては、ラノベはSFの孫みたいなものかなとも思う。ちなみにハードSFと言われる科学的設定をそれっぽく理論化しているジャンルは、ラノベでは出現していない。(知る限りでは、たぶん)
たまに、ラノベ作品でも異世界の設定を疑似科学的に説明することはあるが、そこが物語の本筋ではないからハードSFの子孫とは言えないだろう。そもそもハードSFは登場人物の会話がステロタイプで説明的という、笑いたくなる特徴がある。世界設定のお話が全て、という作品が多い。そこが面白みだから仕方がないのだが。
ラノベがSFの傍流というか下流という理由は、異世界(ファンタジー系)でモンスターが生存している、あるいは人と共存している世界が基礎設定として使われることが多いせいだろう。ただし、その世界は存在するだけで、世界の成り立ちの説明は曖昧であるか、ほとんど説明されない。世界の成り立ちの説明があるかどうかが、SFとファンタジーやラノベの差だと思っている。
あるいは次元スリップ、タイムスリップなどで、過去に飛ばされたり、並行世界(現代日本によく似ているが、なぜか怪獣が出現する)に転移したりという設定も多い。SF好きとしては、スターウォーズのような宇宙船と帝国と異星人とお姫様がごちゃまぜになって出てくる世界は実に楽しい。しかし、スターウォーズ第1作封切り時には、この映画の話をするときに、あれはSFではなく空想・ファンタジーの世界だよねという「おことわり」が必要だった。
当時は架空世界を精緻に構築していないとSFとして認めないような雰囲気があった。例えば超光速航行をワープの一言で済ませて、なんの説明もしないのはSFとして反則だろうという類の話だ。そんなSF世界の決まり事をあっさり無視したのがラノベの元祖たちだった。
今ではラノベの世界設定は、なんの説明も必要ない。それがあたり前な物語として認識されている。つまりSFっぽいお話ながら、科学ゴリゴリ解説が必要であれば(あるいは、そういう話を大量に放り込めば)ハードSFになる。それ以外のフワッとしたモンスターや超能力が当たり前の世界のお話はライトノベル、こんな分け方なのかもしれない。

そのラノベも第二世代に入っているようだ。ラノベを読んで育った読者が書き手になったということもある。第一世代のラノベは、それなりにSF的設定やSF的決まり事を尊重していた。ただ、その縛りがだいぶ緩くなったのがラノベ第一世代ということだ。
そして今では第二世代がジャンルのお約束を揶揄するような書き方をしている。例えば、主人公が「よく読んでいた異世界転生ものでは、必ずこんな話になるはずなのに・・・」とぼやく。これは楽屋落ちというしかない。つまり物語の中にメタ物語の構造が埋め込まれる。それを書き手も読み手も楽しむ。そして、いわゆる楽屋落を喜ぶほどラノベ愛好社会が膨らんだことを意味する。小説として確立された「ジャンル」ということだ。
衰亡するSFというジャンルを、軽く流しながら受け継いだラノベ業界で、それを広げる役割を果たす、「成長した第二世代」という感がする。今のラノベをSFの孫という意味はそこにある。

その楽屋落ちの典型パターンに、転世者物語(ラノベ)を愛読していた主人公が、なぜか異世界に転生してしまったというお話も数多くある。ジャンル小説を読み漁ったジャンル小説の書き手にとっては、その設定が当然すぎるだろう。その読者もジャンル小説愛好者と最初から想定されているので、くどくどとした設定解説がいらないのが特徴だ。
そのラノベ・第二世代書き手の中でも、SF的な残り香が強いお話として面白かったのが「村人ですが何か?」小説版だ。SF的なテイストは隠し味程度で文体は軽い調子の口語体だが、会話の量が他のラノベと比べても少ないのが目立つ。
個人的に面白いと思うラノベ作品の特徴として、「異世界構築の理屈」をどのように説明するかがある。この作品の独特な「世界の成り立ちと冒険者・勇者の戦う動機」は、まさにSF的な領分のお話なのだが、物語の焦点はそこではないところが、やはりラノベであってSFとは違うということだろう。個人的には主人公たちのあれこれ、ラブコメ的展開はほとんどどうでも良くて、背景事情と物語の整合性みたいのがやたらと気になってしまった。ラノベの楽しみ方としては邪道なのかもしれないが。最後の方では、世界を改編しようとする悪者を退治するというゴールデンパターンにはなるのだが、そこに行くまでの過程では世界を救うつもりなどかけらもなさそうな主人公の行動が「今風」ラノベではあるのだが。
王子様が龍を退治してお姫様と幸せに暮らしましたとさ、という展開では売れるお話にはならないのが、現代ラノベのお約束なのだ。

ラノベの話 続く

【以下はご参考まで】
アマゾンのリンクを貼っていますが、アフィリエイト宣伝などしていません。調べてみたいという方への参考程度です。ちなみに題名で検索するとコミック版の方が目立ちます。小説版は探すのに苦労するのが今の時代でしょう。最近は紙媒体である本より電子媒体であるkindleの方が人気のようです。

公式サイトは→  村人ですが何か  https://gcnovels.jp/villager/#

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