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縁起物

無事に年が明けました。おめでとうございます。

毎年正月を迎えると「めでたさも中くらいなりおらが春」という小林一茶の句を思い出す。しみじみと思うほどのことでもないが、まさに自分の実感という感じがする。宗教に熱心でもなく、縁起を担ぐわけでもないのだが、それでも折にふれ神社でお参りをしたときには、お札をもらったり、御神籤を引いたりもする。縁起物といいう言葉は、なかなか綺麗な日本語だと思う。日本人の宗教観のおおらかさみたいなものだろう。八百万も神様がいると天竺から50や100の神様が到来してもびくともしない。砂漠の一神教の厳格さからすると、ほぼ野蛮人としか思えないかもしれない。まあ、一神教の世界が人類にとって正統で標準というわけでもないだろう。

年末の酉の市の熊手

だから、験担ぎであまり深く考えずに縁起ものを調達している。ただ、神棚も仏壇も持たないので、デスクの上の壁際に置いてある。神様も住環境の悪さに閉口しているかもしれない。熊手もよくよく見ると、お値段の割には作りが簡素で、おまけに日本製でもないようだ。まあ、日本の神様だから、縁起物がどこの国で作られても寛容に諦めてくれるとは思うが。流石にぼったくりというわけにもいかず、これもご縁が回っていくためのしきたりみたいなものだと思うことにしている。仏教であればお布施の一環みたいなものだろう。

しめ飾りも、なぜか毎年玄関先に飾っているのだが、その1週間前は家のものがクリスマスリースを飾っているので、ささやかな我が家も年末年始はインターナショナルな環境にある。どの辺りで砂漠の一神教の神様がお引き取りになり、どのあたりでこの国の八百万の神様が団体でいらっしゃるのかは定かではないが、25日の深夜なのではないか。
今では100円ショップで売られている正月用品だが、縁起物にも価格破壊の波が押し寄せている。何やら、実に日本的な風景なのだな、などとおもいながら、あまり華美ではないものを選んできた。500円も払うと実に絢爛豪華なしめ飾りになるのだが、あまりゴージャスすぎるのもねえ。やはりめでたさは「中くらい」で良いと思う新年であります。

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