
納沙布岬に行くには、根室市内から南回りと北回りがあるのは地図を見ればわかる。が、それを太平洋周りとオホーツク海周りというのは、観光業的なセンスの表れだ。ただ、意地悪くいえばどちらも太平洋だろう。オホーツク海は太平洋の一部ではないのかなあ。それでも行きはオホーツク海回りだったので帰りは太平洋ルートにすることにした。

オホーツク回りでくれば目の前に国後島が見えるはずなので、気分的には北回りが良さそうだ。この日はあいにくの曇り空で「島」の姿は見られなかった。陸側には延々と牧場が続いているのが、これまた絶妙な景色になる…ただ、晴れていればの話だ。

この門というかモニュメントは、根室の名物みたいなものだろう。北方領土を返せ、という強いメッセージをシンボル化したものらしい。北方領土を返せというのは、一度、亡国した国の悲願みたいなものだろう。歴史的に見ても、江戸時代の日本とロシア王朝の間で決めた国境は、本来の国境線だ。その後、日露戦争を含め戦争により領土が変更されたのは、戦争の成果が領土拡張であった時代のことだから、増えたり減ったりは歴史的に当たり前だ。
そして、戦争に負けたら領土は取られるのが国際政治のルールなので、先の大戦で負けた後は明治時代の成果まで没収されたのは仕方がない。帝国主義云々ということより、戦争と領土の取り合いは、国際社会で今でも変わりがない「普遍のルール」だろう。
「返せ北方領土」は、心情的にはわかるが、北方領土が取り上げられたのは戦争に負けたせいで、その負ける戦争を始めた政治家やその取り巻きを処罰もせずに野放しにした国の責任だろう。恨むなら、国を恨めということのような気がする。

そして、その北方領土返還を訴える納沙布岬のもう一つの石碑がこちら。アイヌと和人の抗争時に、殺された和人(要は日本本土から出稼ぎに来ていた民)を悼むものなのだが。これもまた、ずいぶんと和人寄りの視点で建てられている。
もともと、大和朝廷の時代に遡って、大和の支配する地とは現在の福島県境までで、そこから北は蝦夷(えみし)という異民族の地だった。それを併合した上で陸奥(陸の奥)などという、これまた蔑称というべき地名をつけて支配した。当時の北海道は、まさに辺境、異境、大和民族の生きる地ではなかった。
そして、その1000年後になり、蝦夷地(今度はエゾとよんだ)に侵入。この時点でも、明らかに蝦夷地は日本の国外で、植民地にもなっていない。アイヌ民族はこの蝦夷地から樺太、そして大陸にかけて広がっていた北方系民族だから、明らかに彼らがネイティブ民族だろう。和人が大陸から樺太、蝦夷地(北海道)と渡る交易ルートに商業的価値を見出し、蝦夷地侵攻を行ったのだ。これは北米大陸のヨーロッパ植民地入植者とネイティブ民族との軋轢と全く同様なものだ。
弱肉強食が歴史の世界であり、和人が襲われたのは和人が悪虐なことをしたからで、アイヌ民族の方が力が強かったから、自業自得みたいなものだ。(確かこれは、小学校でも教わった)
その結果、アイヌ民族と和人の戦争は何度か起こり、最終的には和人が数の優位を生かし占拠し、明治時代にはアイヌ民族を差別する形で法制化までされた。
だから、この石碑は、歴史的に勝ったものが、負けたものを差別した成果として建てられたとも見える。アイヌとの抗争に巻き込まれ犠牲になった和人を悼み(勝者の立場)、その隣で自分たちが仕掛けて負けた戦争で失った領土を返せと言う(敗者の立場)。
とてつもなく不思議なダブルスタンダードの世界だなと思った。歴史の生きた証拠とはこう言うことをさすのだろか。日本の東の果てであれこれ考えてしまった。